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No 18. January 15 〜 25, 2013
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村の小学校
カディ綿を織る人

朝の町に見つけた花

Comilla  インドとの国境
 
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 ダッカに発つ前日は深い雪になった。午後からしん、しんと大きな雪の花びらが落ち始め、しばらく留守にするオフィスの仕事を片付けて夕方に帰る頃には、すっかりの雪景色で、ほんとに美しい銀世界になっていた。案の定、夜にバス会社から電話が入り、羽田行きのリムジンバスの運行が取りやめになったことを知らされた。飛行機は平常通り。唯一の交通手段である電車はどうだろう。夜は運行が見合わせだけれど、朝は動くかしら。まんじりともせず夜を過ごし、朝には電車が運行していることを知り、安心した。
 すべての搭乗手続きを無事終えて、乗客たちは時計を気にし始めた。離陸時間をはるかにまわっているのだ。ほどなくして、乗組員が雪の影響で到着していません、というアナウンスがあった。1時間以上遅れてスタッフの一団が到着。乗客が時間に間に合わせて到着しているのに、これはなんとしたことだろう。日本ではないような不思議な体験をした気分になった。帰国した翌日も雪が降り、今回のダッカ行きは雪と道連れだったようだ。
 ダッカ行きの道連れは若いカップルで、奥様は数年前に「アッキルマ」という絵本の挿絵を書かれた葉子さん。アッキルマはバングラデシュの村の少女の名前で、可愛らしい絵本ができている。彼女のご主人はイタリアンのコックさん。たまたま時間の都合がついて参加となった。彼らにとっては初めてのバングラデシュであり、葉子さんは次の作品のヒントを得るための旅でもある。ナラヤンプール村がアッキルマちゃん以来、いつしか彼女の心に根付いていたにちがいない。
 ダッカも寒い冬だ。だが日本の寒さを知る私たちには涼しい時だ。コートも暖房も必要がない。地元の人たちは少し暖かめの服を着ているようだが、私の村の人たちは何も特別な服装をしていない。水のシャワーを浴び、夜も何もかけずに寝ていたようだ。私はお湯のお風呂で、厚い毛布を3枚かけていたので、これは根性と慣れの問題かもしれない。
 今やサクラモヒラの創始者ハク氏に代わり私たちのバングラデシュでの保護者となった、ダッカのトレイニング場所の大家、シラーズさんの顔を空港に見つけてほっとした。最初に来た時とは違い、今や日本人も含めて外国人が増え、しかもビジネス系の人が増え、税関のあたりは様変わりだ。変わらないのは、入国手続きの手際の悪さだけ。以前の方が入国者が少ない分、早く手続きを終えることができたようにも思う。いつもながら、空港も柵の外も、人、人、人、車、車、車、騒音、騒音、騒音・・・ダッカの音はここから増幅して広がっていくのだ、と信じてしまうくらいだ。
 シラーズさんは、サクラ第2マンションの6階、7階、8階を増築中だ。9月に来た時には、こんなにすべてが手仕事でいつになったらできるのだろうか、と思っていたが、その割には大かた形がついて、彼はもう3カ月くらいしたら、忙しくなくなるから、日本人を大勢連れてきて下さい、と言ってくれた。自分で材料の買いだしも、現場監督もすべてしているシラーズさん。これをしないと、現場から物がなくなったり、労働者が仕事の手を抜いたりして、とんでもないことになるのだそうだ。そう言いつつも、出来て行くマンションにすべての夢をかけて、彼はとても充実しているように見える。

 
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ナラヤンプール村の小学校
 

 校庭の樹をご覧ください。14年前に甘い果樹の苗木を14本ダッカの苗木店から買い求めて植えさせたものである。その時も大勢の大人、子どもが集まり、村の大イベントだった。頑丈なコンクリートの柵を作り、山羊や牛から保護したのだが、その柵ももうなくなっている。大きく茂るマンゴウの木々。果樹も実っているにちがいないけれど、実った果樹の話は聞いたことがない。いつのまにか無くなってしまうのが、当地の常だということだ。私は、果樹の木陰で子どもたちが本を読み、皆で果樹を楽しむという絵を夢に描いていた。本もかなり揃えたけれど、子どもたちが借りて読んでいるのだろうか。そのことを今回も先生に聞いてくるのを忘れてしまった。人が大挙して押し寄せるし、先生たちが給料の値上げの要求に来るので、じっくり話をする時間がないせいだ。と言ってはみるけれど、実は、夢の話をしていられるほど現実はあまくないのだ。今回は、アートの教師がまじめに授業をしないという内部報告を受けていたので、彼を解雇するつもりだった。教師からのメールには、アートの教師は来たり来なかったりで、子どもたちもがっかりしていると書かれていた。「どうしてそのままにほっておくのか。自分の国の子どもがかわいくないのですか。このプロジェクトは続けますか、止めますか。自分たちで決めてください。そして返事は早目にください」と日本からメールを入れてあったのに2カ月の時間があったにもかかわらず返事はなく、準備もできないまま、また直接村で話すことになった。あれやこれやにうんざりして、私は16年も支援してきたのだから、そろそろ引き時を考えた方がいいかもしれない、という心情になっていた。今や通いなれた5時間の道を経由して、村に着いてみると、教師たちも村の世話係アンワー・ホッサンも、件のアートの教師をかばうモードである。出迎えも、花束も、なにもかも気合いが500%入っていて、歓迎ムードが満開以上だ。子どもたちも、顔も名前も知らないけれど可愛い。皆教えられたように一所懸命に演技している。私が16年も愛してきた村の学校、子どもたち、教師たち、村の風景。なにもかも、一生懸命育てたものばかりだ。それでも、そろそろ引く時かもしれないと、まだ交錯する感情を整理できないでいた。その間も子どもたちは一生懸命歌ったり踊ったりしてくれている。この私のために・・・。16年は短いようで長い。校庭に育った果樹を見るにつけ、子どもたちの姿を見るにつけ、涙が流れて、子どもに「どうしたの」と聞かれてしまった。「給料をあげてくれれば彼もやる気がでる。ほんとに資格を持った教師を雇えば、もっとお金がかかる。」という話がアンワーから出たので、それなら自分たちで雇ったらいいでしょ。私はアートのクラスはやめにするから、と日本語で言ったら、ガイドのジアさんが「平間さん、このことは通訳しませんから、辞めないでください。僕からお願いします」と涙を浮かべているではないか。校長先生も、国は教師を雇ってくれないから続けてほしい、と言ってきて、アートの教師はいつもの「日本に留学させろ」という強気の態度もなく、居心地悪そうに義務を果たしていた。結局は皆の給料の値上げがきまり、私は自分の小さな懐を深く心配することになった。給料やコストを払い続けることができるだろうか。近年バングラデシュのすべてが急激に値上がりし始めて、以前ほど簡単にはいかなくなった。おまけに、日本で物を売ってお金を作るのも同じように難しくなってきている。頼まれても、これらの資金を作りつづけることは、それほど簡単なことではない。だからと言って、止めにするのも、簡単ではないように思うのだ。
 人はさまざまなことを言って、お金をだすことのばかばかしさを説くけれど、実際にかかわって人と人の交流が生じると、視点が違ってくるように思うのだ。確かに私の村の人たちは何も持たない人たちだけれど、だましたり、怠けたりの人たちではない。知らないことはあるかもしれないけれど・・・どうやって説明してよいかわからないけれど、私のプロジェクトではお金をあげたとかあげないとか、という視点よりは、村の人たちとどのように関わっているか、ということが問題だ。私が苦労して作ったお金の大変さを分かる村人はいないだろう。その点では叫びだしたい衝動に駆られることもあるけれど、視点を変えて、日本からの訪問者は村で何を感じるのだろうか、と問うてみよう。この一生懸命な子どもたちを前にして、依存心がついてきてそれが問題だ、という人がいたらよほど感受性に乏しい人だ。村人と時間を過ごしながら、実際には、心になにか暖かな贈り物を得たように感じてもらえることだろう。村の人たちも日本の人たちに来てもらいたいいちがいないけれど、私が思うに、日本の人たちにも行ってもらいたい場所である。そして、迷った末に、またしても同じ結論をだした。神様にお任せします。一生懸命にやれば、答えがでてくる、と信じよう。

 
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村の女性たちの縫製チーム

ダッカの仕事場で
 

 村の女性たちの縫製チームのリーダーさんたちがナラヤンプール村からダッカの仕事場に出てくるようになって、1年が過ぎた。ジャハナラさんもカジョルレカさんもすっかりダッカのトレイニングに慣れて、サクラモヒラの奨学生アムジャドの手伝いももう必要としなくなった。彼女たちは自分たちで、村からバスでダッカのビジネスの中心街にやってきて、モジャ(ベンガル語でおいしい、という意味)レストランで食事をし、周辺で買い物もできる。ダッカのオフィスでは朝から夜まで働き詰めだ。だが、ダッカに来るのは楽しくてしかたがない。家庭を忘れて自分に戻れる時なのだ。しかも自分たちが稼いだお金で子どもたちにお土産さえもかえるのだから。私が誇らしく思うのは、彼女たちの仕事の質はもはやダッカの縫製者の質を超えたことだ。上の写真で、ジャハナラさんは、すぐに定規をだし、測っている。これは日本では当たり前のことだけれど、ダッカの縫製者たちは、なんとなく目測でやるから、なんとなくの仕上がりにはできるけれど、商品となるような正確な製品はできてこないのだ。繰り返すけれど彼女たちは、ほんとにいい仕事をするようになった。こちらが教えた範囲に限るけれど、次の段階で向上につながっていくので、私は嬉しく感じているし、村の女性たちも少しずつプライドを持ってほしいと願う。
 かたやダッカのパートナー、ラズマットさんの仕事チームは、ちょっとパニックに陥っている。最初の仕事がこちらの要求するレベルに届かず、テイラーは、自分たちの自信がくじかれてへそをまげ、テイラーは「熱があって」とコーディネイターのラズマットさんが苦し紛れの言い訳をして、その都度違ったテイラーを連れてきている、という状況だ。原因は、テイラーたちに基礎がないことだ。パターンを読めない。彼らが教わったやり方で、布に直接線を引き、裁断するのだけれど、バングラデシュの服では多少の大きさは、歪んでいても違っていても、なんとかなる。腕のいいテイラーとかいい服は、着心地がよいという評価点はなく、飾りが高価で美しいという意味である。できあがった製品に関していくつかの問題点を指摘したら、日本の基準を果たせぬは私のプライドが許さないとばかりにラズマットさんが反応し、今はこちらからの注文品には神経質になり、テイラーがこれくらいのことができないの!と服はおろか雑巾さえも作れない私にとどなられるくらいに、なんでもないことを真剣な声で、国際電話をして聞いてくるのだ。

 
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イスラムさんの鞄工房と新しいビジネス
 

 イスラムさんの工房では、指導を必要としない。これを作って、とデザインを渡すだけで、その通りの製品サンプルができてくる。革製品を親会社として、不動産と内装ビジネスを子会社に持ち、最近、ダッカの高級住宅街にショールームを開き、そこで日本製品を扱う予定である。日本製品はまだ数が揃っていないけれど、彼らの野望は広がり続けている。しかし、それには根拠があり、ダッカの人たちはよい製品を求め始めているのだ。
ダッカにサクラモヒラのオフィスを持ち、そこで短期間ではあるが、生活してみて、始めて分かってきたことだけれど、とにかくすべての製品の質が悪い。皮の剥けないピーラー、すぐに水漏れを始めた電気ポット、水を吸い上げないポンプ等など、生活をするにあたっていろいろな物を買ったけれどほとんどが用をなさなかったり、すぐに壊れて、それぞれは安いけれど、結局はほんとに高い買い物についた。
 品質が劣る原因は多々あるだろう。日本製品にしてもその昔は「安かろう、悪かろう」が代名詞だったのだから、さまざまな工程を経ながら時の流れにしたがって、行くべき方向を見つけていくのだろう。
 イスラムさんの不動産部門が内装を手掛けたレストランに連れて行っていただいた。「Red Tomato」というレストランで、バングラデシュ、タイ、中国料理の店である。赤と素朴な白をテーマにした壁。白いクロスがかかったテーブルにはワイングラスがあって、それで飲み物が飲める。もちろんアルコールはないけれど、おしゃれなムードは満点だ。グラミンチェックのセンタークロスがかかっていて、ナフキンも同じグラミンチェックで作らせて、オリジナリティをだしている。グラミンチェックは言ってみれば、農村の格子柄であり、このような都会の場所に持ってくるような、モダンな布とは人々は考えていなかったものだが、バングラデシュのシンボリックな布である。戸口にはレースのカーテンではなく、すだれを配して、西洋と自国のコンビネイションを見事に調和させていた。彼らは変わりつつあるバングラデシュの先陣を切っているかのようだ。彼がオープンさせたショールームの内装も、そこを埋める製品も、高価には違いないけれど、バングラデシュ製品のイメージを超えて、ユニバーサルな基準で勝負できる。イスラムさんは、ほんとにがんばっている!

 
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カディ綿の村で
ジャムダニ織の工房で

 ダッカの発展とは対極に、上の二つの写真はひたすら同じことを続けて、発展の波とはほぼ無縁の生活をしている人たちだ。サクラモヒラでは、1年くらい前からコミラというカディ綿の出身の方と協力して、カディ綿をサポートしている。カディ綿は、手で紡いで、手で織る綿だ。ガンディが、イギリスから当時のインドを独立させるにあたり、農村部の生活の糧として、「インド人よ、この風土にあった手織りの綿を着ようではないか」と奨励した綿だ。織り場の村人は来る日も、来る時も、ひたすら機に向かい、単純作業を繰り返して、布を作る。世の中の発展も貧困もなにも関係ない。ただ作業をするだけだ。手作業なので、柔らかで気持ちのよい綿だけれど、昔ながらの作業をただ繰り返して、生き残れるのだろうか。今回、ジャムダニの作業場にも連れていっていただいた。ジャムダニ織はバングラデシュが誇る縫い取り模様の織物で、小さな子供も働いているけれど、それは小さな頃から覚えないと、この複雑な縫い取り模様の習得ができないからだ。同じように来る日も、来る時もトタンの薄暗い仕事場で同じことを繰り返すだけだけれど、ジャムダニ織はマーケットを見つけ、芸術品として高値で売れる。

 ラズマットさんのテーラー筋には、カディ綿のシャツやブラウスの注文を出してある。まだ新しいパートナーなので、比較的失敗しないデザインばかりだけれど、春から夏にかけて気持ちのよい製品をご紹介できることと、切望している。

サクラモヒラに関わる人たちに対するご理解とご協力、ありがとうございます。
モニールに続いて、アムジャドが昨年9月に大学を卒業し、彼らはサクラモヒラの奨学生からも卒業しました。

 
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