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No 3. September 3 〜 16, 2004

ブッシャンドハラの午前の光景 : テイラー・バッシャの工房より
 

 8月1日、Sakura Mohila Tradingの第2回展示・販売会を終え、9月3日ダッカに向けて飛び立った。3月に訪問して以来、約半年ぶりのダッカである。テイラーとの共同作業を通して、日本の市場で競争力を持つ品質を彼らに知ってもらうことが主な目的であった。

せっかくの日本の方々の支援に充分にお応えすることができず、ご迷惑をおかけするはめとなったり、我慢していただくことになったりすることがあり、仕立て屋の指導は最優先課題のように思われた。現在の仕立て屋があまりにも基本的なミスが多く、仕立て屋を変えようと意気込んでダッカに降り立ったのだが、こちらの思い込みはあっさりと捨てなければならなかった。選択の範囲内で彼が適任なのだ。真面目で現地の世話人ハク夫妻の信頼が厚く、英語を話す。その上、コミュニケイションの不足がミスの原因だと信じた彼はがんばってコンピュターを店に備え付けたからだ。日本の私たちとの交信だけを目的に。

彼のミスを今更責めても始まらない。ハク氏は彼がミスをするたびに国の恥とばかりに怒鳴っていたのだが、私たちが態度を変えたとたんに彼の弁護をし始めた。「彼はまじめでよく働く。ミスはしているかもしれないが、それは知らないのだから仕方がないことだ。善意のミスは教えてやればいいではないか。一年の経験を無駄にしないためにも、バッシャとやってくれ。」かくして、「次回からのミスは、送り返す費用も含め日本円で請求する」というオドシ付きで仕立て屋バッシャとは新たな出発をすることになり、到着した翌日からテイラー・バッシャの工房にデザイン・指導担当の小木節子を伴って通い詰めた。滞在するアパートメントから車で15分弱の場所であるが、彼の工房のある場所は外国人の居住地域に隣接する下町である。衣料工場などがあり、通りの路上や屋台のような店で売っている野菜や果物は庶民価格だそうである。車も走っているが、たいていはでこぼこで、つやの失せた赤い車に灰色の修理の痕跡がはっきりと目立つ類のものである。そのような車を任されているお抱えの運転手は、高級住宅街の運転手の身綺麗な服装に比べ、土の色が染み込んだようなルーンギを身に着けてタバコをふかしている、という体で地元の風景にしっくりと溶け込んでいる。「クラシック・カー」と書かれた工場では車が数台あるにはあるが、壊しているのか直しているのか、組み立てているのか判別がつきにくい。だが日に日に部品が穴を塞いでいくところを見ると中古車を走れるように組み立てているのだろう。車に限らずダッカのあちこちで進んでいるビルにしても壊しているのか建てているのか、しばし考えないと答えがでない。手作業が中心なのでいつも同じ労働の光景が展開しているのだ。バッシャの工房の棚には毎日、少額のお金が準備してあり、何だろうと思っていたら、それを物乞いに施していた。ある日、老女の物乞いと交渉しておつりをもらっていた。どんなルールがあるものか、もっと親しくなったら訊いてみようと思っている。

作業中に、たびたび停電になった。雨がひどく降った時には朝から電気がこなかった。店の中には1本、電池の蛍光灯があるが、停電になると、コンピュターはおろか、電燈、ミシン、アイロンは使用停止である。しかも雨がひどくなると、車もリクシャも通らないから、工房に働く人たちもバッシャ自身でさえも工房に来る手段を失う。
私たちに気を使い、彼は弟や見習い君に作業の合間にアイスクリームやスプライトなどを近所の食料品店まで使いに走らせてくれたが、アイスクリームは頻繁な停電を立証するかのように、溶けた後で再、再々、再々再凍結ということを繰り返すので、元の形がくずれて凍っていた。

一年の試行錯誤と混乱の後で、私たちの側にも彼の側にも失敗を繰り返すまいという具体的な発想があった。問題点がはっきりしてきたからだ。彼は仕事欲しさのあまり、強気だけが先行していたし、私たちはテイラーに裁縫やアイロンのABCを教えることなど夢にも考えていなかった。だが、2週間の共同作業と職場の条件を体験して、こちら側にも心しておかねばならなかったことがあったはずだと、少々片腹の痛い思いを噛み締めた。彼の工房は独立して一年の小さな工房である。仕事が突然大量に増えると、チャンスとばかりに引き受けはするがそれをこなす能力がないから、下請けに出す。すると、こちらの指示が伝わらなくなってしまうのだ。「あんなに言ったではないか」「すみません」の繰り返しだが、彼は仕事が欲しくて決して本音を明らかにしないから、問題は根本的に解決しない。おまけに彼らは日本人が当然のこととして求める緻密な質の高さを経験していないのだ。まったく基本的な部分で、日本の基準で判断して、高みから指示をだしていた自分たちの姿が見え始めた。振り返って見ればミシンでさえ、木綿の単純な服を縫うには問題がないけれど、シルクの薄物を縫うための精巧さが備わっていないという代物だ。プロ用のミシンを当然使っているものと疑うことさえしなかった私たちは、指示する段階で少々的をはずしていたかもしれない。デザイナーの小木節子が急遽、彼らのミシン用に合わせた縫い方に変えていた。百聞は一見にしかず。けれども、プロジェクトの中ではこのテイラーとの共同作業は一番手応えを感じる。彼らも自分たちの製品が日本で売れることに野心と誇りを感じている。

11月はイスラム教のラマダンの月である。めでたい時に備え人々が服を新調する時である。バッシャの店の棚にも見本の布が数を増していた。私たちはこの時を避けて、日本用の服を仕立ててもらうことにした。両者間の理解とコミュニケイションが少し進んだようである。バッシャも闇雲に「イエス」とは言わなくなった。もっともこちらが、「できなければノーと言っても待つからね」という言質を与えたあとで……。

後日談ながら、彼の工房からは仕立ての良い服ができている。一度ポイントを押さえてしまうと、数をこなしているだけにきれいな仕上がりである。今は私たちの目の前で裁断し、縫製しているので問題はないが、彼もスタッフも若い力でどんどん覚えてくれることだろう。バッシャの次の目標は性能の良いミシンを買うことだそうである。そのような姿を目の当たりにして、過去のあのミスの続出は何だったのか、そしてこの仕事のレベルは独自で仕事をした時にも保たれるのだろうか、とこちらとしてはまだ少々用心深くかまえてしまうところである。


バッシャの工房で
アイスクリームの3種類のデフォルメ
 

 ナラヤンプール村の教育担当、ホッサンさんから電話があった。村に向かう道路で事故があり地元の人、5人が亡くなられたそうである。その道路は8月の大洪水で深くえぐられ、私たちが滞在中の後半も降りしきる雨の中で、閉鎖されているらしい。現地の世話人ハク氏は他のルートを使って決行することを頑固に主張していたが、結局、ホッサンさんがそのルートを使い2日がかりでダッカにやってくるという結論に落ち着いた。今回は大学生のいずみさんが私たちに遅れること一週間、初めての海外の旅をバングラデシュに決め、ダッカ、ナラヤンプール村を私たちと行動をともにすることになっていたので、ハク氏も是非連れて行きたいという思いが深かったのだ。けれども仕方がない。予約していたマイクロバスをキャンセルすることにした。

 村の学校へのおみやげは何にしようかと考えていた時、ひょんなことから村の学校にオカリナを持って行けるようになった。楽器製作所の方が好意的な価格で提供してくださることになったのだ。昨年、これも別の方の好意で素焼きのオカリナを何丁かナラヤンプール村に運び、皆で使ってほしい、と教育担当のホッサンさんに頼んできていたのだが、今回はプラスチックのオカリナを144丁買うくらいの資金はやりくり可能だった。ハク氏に「本とオカリナとどちらがいいでしょうか」と問い合わせると、「もちろん、オカリナ。本は必要なものだけれど、オカリナが吹けるというのは現実を超えた特別のことで子どもたちのプライドに繋がるすばらしいことである」という返事だった。そのような経過があって、いずみさんにも手伝ってもらい一人48丁ずつの割り当てで運ぶことになった。プラスチックの144丁と素焼きの15丁を合わせ、160丁のオカリナがバングラデシュ初上陸である。小さなコンサートを校庭でしようと、いずみさんといくつかの曲を合奏で練習し、子どもたち用の練習曲のコピーも準備してあったのにちょっとがっかりだ。だが次の機会にまわすことにした。さらに別の有志の方からも村のために使ってほしいと寄付を頂戴したので、それで本を買わせていただくことにした。「やった!今回はオカリナと本の両方のおみやげができるぞ!」ハク氏に相談したら、50冊くらいは買えそうだ、という答えがあった。ダッカのニューマーケットというところでは本も卸価格で買えるということだ。今日は行こう、明日は行こうと言いながら、雨のために街のあちこちで水が溢れ外出がままならず、延び延びになって、結局はハク氏に本の選択を託して帰国することになった。

 帰国の日、いずみさんがあまったお小遣いを村のためにと提供してくださった。私は本をもっと買うという発想しかなかったが、ハク夫人が、子どもたちにシャツを買ってやりたいがどうか、と言う。自分の思い込みばかり先行していたことに少々面食らいながら、現地の人ならまずは衣食住に思いを馳せるのが当然かもしれない、と反省することにもなった。オカリナだの、本だのと現実から遊離してハラの足しにもならぬ物ばかり考えるのも、村の人たちはどのように思って見ているのだろうか。ふと、ハク氏の出身の村から出てきた親子がある日いつの間にかハク家の台所のあたりにいて、2〜3日くらい家のどこかに泊まり、いつの間にかいなくなったことを思い出した。サリーなどをもらいに来たということだ。どこで寝て、どこで食べたのか、いつ来て、いつ帰ったのか。同じアパートメントの住人なら食事を伴にし、紹介し合うのに、大抵の場合村からやって来た親戚以外の人たちは紹介なしで、なんとなく顔を合わせなんとなくいなくなる。

 村の人はどうやって着るものを調達しているのだろうか。片方ずつ違う靴をはいた子、はだかで腕時計をしている子、大人のミニスカートの服をくるぶしの長さで着ている子、綺麗なサリーを着ている子……石版で学ぶ子どもたちにオカリナか。でも、まあ、それもいいか、と自分を慰めてみるけれど、このような場所ではすべてが足りないのだ。サクラ・モヒラ・ショミティの女性たちの身奇麗なサリーはどうやって調達したのだろうか。皆、それぞれの裕福な知人や親戚を訪ねてはもらってきたのだろうか。この村で充分に足りているものはなんだろう。自然の豊かさ?ふるさとの香り?私が関った4年間の写真を見ていたら、最近の写真にはバックパックを持って学校に通う子が何人か写っていた。村の学校には電線の先に電球がまだないけれど、グラミンという今や巨大企業とも呼べるNGOが携帯電話を村の女性に貸して、そこで電話をかけるということもできるようになったそうだ。電気より携帯電話が先行する社会。この先、何がどのように変わっていくのだろうか。ホッサンさんには図書の貸し出し制度を作って、村の若者たちも本を読めるようにしてほしいとハク氏に頼んできた。それでは本がなくなるだけなので、登録制にしてメンバーシップのお金を少し払うようにするという案が出たが、肝心の本は自然の力に阻まれて、まだ用意できていない。

 ホッサンさんの電話での報告によるとサクラ・モヒラ・ショミティの女性たちの数人が5月に牛、山羊を飼い始めまずまずの滑り出しだということだ。だが、8月の大洪水で飼っておく場所がないのでそれらの家畜をすでに売り払い決定的な損失は免れたようだ。ショミティはリーダーを決めて1年半の学習期間を経てスタートしたので、後は自分たちだけでなんとか運営できそうである。村ぐるみの活動であることが頼みである。

 ホッサンさんからまた電話があった。延ばし、延ばしにしていたが、雨がひどく、結局は彼もダッカに出てくることができなかった。電話で、「何を準備したらいいのか」とハク氏に何度も訊いて来るそうだ。4年前に日本のSRIDという婦人会からの援助で教室を建てた時に、ハク氏に請求書、領収書の類の提出等で怒鳴られて、今度こそはしっかりやるぞと発奮して、そのお金の使い道を証明するための書類等を準備するために訊いているらしい。書類は彼と会うことができなかったので、受け取ることはできなかったけれど資金の使途と資金は整理してあり、電話で数字を訊くことができた。この資金は個人から出たもので当の本人は報告を受けることなど想像さえしていなかったのだが、彼がそのような意識を持ったということは、将来を考慮した時やはり一歩前進と言えるだろう。ハク夫妻も両者の間に立ってあまり怒鳴る材料がなくなった。それぞれが年月を重ねる中で少しずつ学習していった成果だろう。

 ホッサンさんにサクラ・モヒラ・ショミティの女性たちが独立するための資金の残りを全額預けて、ハク氏の資金管理の責任はそれで終わりになる。彼は病気で、責任を持つことができなくなったのだ。だが、ここまで来てしまえば村の責任者にリードを任せてもなんとかなりそうだという予感がある。ここまで来るのに2年以上の月日が経過した。後は定期的に訪れて、プロジェクトが発展していくさまを楽しませてもらうことにしよう。

 サクラ・モヒラ・ショミティの経緯を読んでいてくださる皆さん、どうぞ遊びに訪れてください。ナラヤンプール村が人間の交流する場所になったらどんなに嬉しいことでしょうか。このプロジェクトをスタートさせたハク氏、ホッサンさん、そして村の人たちも喜ぶことでしょう。

 

 9月のダッカは色とりどりの花に飾られていた。南の国なので花はいつもあるが、9月は香りのする花が多いそうである。雨で水かさが増した池から魚が溢れ出し、それを目当てに川のようになった道路を行く子どもたちや大人がいた。少年のリクシャ漕ぎが大人2人を乗せて水の中を進む中、窪みに車輪が挟まって動けなくなった。乗客は降りて手助けをしている。屋根付きの座席がついたスクーターと呼ばれる乗り物やリクシャでは乗客は自ら青いビニールシートを前にかざして雨を避ける。雨の中を傘もささずに行く人たちも大勢いる。膝まで水につかりながら、裾をまくしあげて歩いている。女性たちは肌をだす習慣がないので、濡れるにまかせている。水で工場に通うことができない人が多く、衣料産業の生産が落ち込んだそうである。

 地域の人たちと話をしていて、直接の家族以外のだれかが一緒に住んでいるという例も多く耳にした。親が亡くなったり、離婚したりという事情をかかえただれかを家に住まわせ大所帯を支えながら、助け合って生きている。今回は仕立て屋に通う生活の中でそのような話を聞く時間や機会に恵まれた。
 
運転手さんが訊いてきた。「絹は1メートルいくらで買えるのか」と。日本のお金で買えるという有利さだけに気を取られて、彼らには簡単に買えないものであるということなど考えもしなかった。9月は地元のマンゴーを味わえる最後の月だそうである。ハク氏がご馳走してくださるのをいいことに、「おいしい、おいしい」と喜んで頂戴していたが、ある時、これを食卓に運んでくる台所の手伝いの人たちはどのように思って私たちを見ているのだろうか、と気になった。彼らは皮をむき、カットして運ぶだけでめったに食べられない果物だ。また、どこの家でもデザートにだしてくださるヨーグルトはほんとにおいしく、無邪気に「おいしい、おいしい」と褒め称えていたが、家の手伝いの少年が裾をまくって水の中を買いに行ってくれたことを思うと、なんだか胸がいっぱいになった。彼らにはあまって食べきれないという場合でもないかぎり、口に入らないデリカシーである。

 ハク家で手伝いをしている二人の青年はホールに毛布を敷いて寝ている。手伝いの人用の部屋は料理をする女性が使っているからだ。ハク夫妻がお孫さんの誕生日に、チーズのお菓子を買って孤児院に持って行った。そこには120人ほどの孤児たちが、学校と住まいを兼ねた施設で宗教と学業を学んでいる。コーランを読み上げる彼らの脇にふとんが畳んで寄せてあり、これなら家の手伝いの人よりも条件がいいではないか、と思いながら見てきたが、実際にはどうなのだろうか。少なくともハク家に勤める人たちは屈託のない表情をしてのびのびと生きている。また、路上で寝ている少年たちを見るにつけても、せめてこのような場所で寝起きできたらいいのに、と同情を覚えるが、現実はさまざまな事情を抱えながら展開しているのだろう。

 ヨーグルトは村の女性たちが作って売るそうである。テラコッタの壷に入って、数種類の味がある。そのうち、サクラ・モヒラ・ショミティの女性たちもそのようなことができるようになるかもしれない。村の誰かが適切なリードをすれば、そのようなことも可能であるように思われる。

 帰路、バンコクで日本の若者たちが大挙して乗り込んできた。免税店のバッグとペットボトルを持って、南国の休暇を楽しんだ風情である。途上国から帰る時、無意識に彼らの顔と今別れを告げてきたばかりの子どもの労働者の顔を較べてしまう。日本に子どもの労働者がいたのはいつまでだったのか。日本に街の水が溢れだしていたのはいつのころだったのか。


街角で朝食のアタールティを焼いて売る店
 
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