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No 4. February 24 〜 March 10, 2005

 

 バングラデシュの首都ダッカのジア国際空港に降り立ったのは今回で6回目になった。興味もなければ特別の何かがあったわけでもないのに、ひょんなことからダッカに通い始め、今では次はいつ行こうかと計画を立てるようになった。初めて降り立った空港周辺の様が大きく変わり、瞬く間に過ぎてしまった足掛け6年の長さが心を動かす。ダッカは混沌の中でうなり声をあげながら開発真っ最中だ。騒音と埃と生きたものが相呼応して創出するこのパワーはなんだろう。きれいになったと感じたダッカの空気は、爆発的な建設ラッシュの中でまた汚れて息苦しくなった。車が増え、高速道路や高架橋が開通し、牛が道路から追われ始めているにもかかわらず、渋滞がひどくなった。埃の舞うメイン通り沿線に世界の車のディーラーがショールームを開き、新品やでこぼこのバスが行き交う。トヨタ車の他にニッサン、ベンツなど多種類の車も見かけるようになった。道路のごみを掃き寄せた向こうにおしゃれなレストランが次々と開店している。交通の要所に稼動する信号が出現し、人は部分的に信号に従って動いている。物乞いの人もルールに従い、赤信号で車の窓をノックして商売の手を差し出す。路上に暮らす人たちは排気ガスの中に空ろな目を向けて、めぼしき人が通ると物乞いの手を電池のきれ始めたような力で差し出してくる。その中で棒のように眠りこんでいる子どもたちもいる。どうやって子を産み育てているのか。首も据わらぬ赤ん坊と母親が汚れで重くなった衣類をつけて道路の脇に横たわる。少女たち5人が路上にビニールを敷いて粉のようなものを分け合って食べている。豆の粉だろうか。リクシャ引きが黒光りの顔で、黄色い隙間だらけの歯を見せて、「リクシャ?」と聞いてくる。あちこちに新築用のレンガが山積みになっている。そしてその脇で古いレンガをくだいている人たちがいる。一日、100円くらいの労働らしい。ダッカで初めて、建築中の高層マンションがジュートのような布で覆われた光景を目にした。周りの人間に配慮するようになったのだろうか。
 ダッカでは春が始まり、ブーゲンビリアが乾季の埃の中で赤、白、ピンクの花を咲かせている。マンゴウの花がびっしりと葉を被い、公園で盗人がもっともらしい理由をつけて公然とココナツを収穫し、池で魚を捕っている。殺されたらかなわないから、あまり抗議はしないらしい。その傍らで語り合う恋人たちの姿も、やっと人目を忍ぶものではなくなってきたそうだ。
 ハク家でお手伝いをしていたラジャークさんは23歳で結婚し、紆余曲折を経て、ハク家の親戚筋のビスケット工場で働き始め、チタゴンに移っていた。世帯を持った彼はお金をより多く稼がなければならない。お料理係りのラシダさんの新婚の夫はレンガ工場で出稼ぎをしているそうだ。時々、電話がかかってくる。そして新たにシュクルアリ君が家庭の手伝い人に加わっていた。12歳。体が小さいので7〜8歳に見える。彼のお兄さんは、3年前は問題児でアパートの皆がどうしたものかと相談していたが結局はハク家の向かいの家が引き受け、そこで洗濯や掃除をして働いていた。2人とも“生活コスト削減”の手段として親元を離れて暮らしている。ラシダさんの前のお料理係りのジュノーさんは、夫が若い女性と出て行って、子連れで住み込んでいたが、彼がひょっこり村に戻ってきたので、彼女も村に戻ったそうだ。ハク家を通して関ったお手伝いの人たちはそのまま、私たちが縁を持つナラヤンプールの村の人たちの生活を生きているのだ。

 

 バングラデシュの首都ダッカから約90kmのナラヤンプール村へ出かけたのは3月2日のことである。マイクロバスを予約したら、昨年の2倍半に値上がりしていた。ただし、電話付きである(使う必要はまるでないのだけれど…)昨年の9月には雨期の洪水の影響で道路はでこぼこになり遮断されて村に行くことができなかったが、今回は穴ぼこは補修されて、おまけに高速道路も開通していたので今までのようにイノチガケでがたがた揺られて行くことはなくなった。現地の世話人ハク夫妻、ハク氏の妹、ハク家の手伝い人マレク君、妹の小木節子と私で、総勢6人と運転手の旅である。昨年9月に運んだオカリナの箱6箱、ハーモニアムという楽器があったので、マレク君は運び係として行くことになったらしい。彼にとっては気分転換の旅である。だが、村の教育係アンワー・ホッサンさんの家に着くと場所を変えて日常と同じ仕事をして手伝っていた。旅はほぼ快適だった。6時に出発したので、ダッカの渋滞前に移動でき、道路事情が良くなったこともあって、例年なら家を出る8時には、すでにコミラという中継の地に到着して、休憩し、10時半にナラヤンプールの村に着いた。
  田んぼの中に浮かぶように見えてくる白い小さな建物……この光景の中の人になるのは5回目になった。昨年校庭に植えた果樹は夏の洪水をコンクリートの立派な囲いの中で無事に生き延びていた。囲いの頭には釘が逆さまに埋め込まれて泥棒避けにしてあった。ここまでやると木のための囲いでも立派な建造物だ。初めは果樹とともに払ったお金の意味がきちんと理解できなかったけれど、1年経過してちゃんとわかった。私が初めて訪れた年に植えたマンゴウは花をびっしりとつけていた。150個くらいの実が収穫できるということだ。これはホッサンさんの個人の土地のモスクの庭に植えたので、竹で編んだ簡単な囲いの中に静かに納まっている。5年で150個くらいの実をつけることから考えて、校庭のマンゴウを600人近い子どもたちが食べるのはいつのことかと想像した。マンゴウの収穫をしてマンゴウパーティーをするのだろうか?皆、一つずつ…
 オカリナをお土産に持っていくという話になった時、ホッサンさんが見たことも聞いたこともない楽器なので、国の人に馴染みのあるハーモニアムがほしいと言ってきた。それで今年はハーモニアムをダッカで求め、資金の余剰があったのでドラムも買った。それでもまだ残ったので、それに足して子どもたちにキャンディ、チョコレート、ビスケットを買った。

 ところで、皆様、「ハーモニアム」なる楽器をご存知でしょうか。ダッカの楽器店に入った時、私はヴィクトリア時代のロンドンのお店を訪問しているのではないかと思いました。「すべての楽器を扱います」と看板のある小さな店にはハーモニアム10台くらいと数個のドラムと小さなヴァイオリンが埃にまみれて申しわけのように一丁置いてありました。このハーモニアムという楽器は左手で風を送りそのパワーで音が出る仕組みになっていて、ボタンでストッパーを緩めるとバイブレイションがかかり、哀愁を帯びた複雑な音色がかもし出されるのです。
 
 音楽の先生をパートタイムで頼み、毎週木曜日に授業を設けることになった。ダッカ市内の公立学校でさえ音楽教育が実施されていない中で、これはちょっとした贅沢かもしれない。だが、今年も4人の政府奨学生が出て、さらに4人が奨学生に予定されているという実績に鑑みて、これは私の希望でもあった。

 昨年9月に本代として渡したお金で本を注文してあった。100冊が加わるそうだ。村の大人も対象に貸し出しシステムを作って欲しいと頼んできたのだが、バングラデシュの進行はすべてが遅く、ナラヤンプール村ではそれよりもさらに遅い。だが着実に形になっているのだから、その地のペースに任せることにしよう。今は教室を建てた時の余剰金で買った本50冊が堅固に施錠した本棚の中で、時の経過に埋もれて静かに眠っているようだ。


ハーモニアム  重さは約10Kg

これで50冊。あと100冊到着予定。
 3年間、数学と英語の教師の給料の支援をしてくださった斉藤和子先生が退職を迎え、その援助が終わることになった。後を引き受けてほしいと頼まれていたのだが、期日が明確でなかったので、こちらもなんとなく漠然とした返事をしていたら、今年の10月で終わることが明らかになった。(そういうことはもっと迅速に知らせてほしい!)
 私たちと話合うために教室に入ってきた時の先生たちの不安そうな顔つきの意味がようやく理解できた。せっかくここまで育った学校の内容も教師2人の生活もその支援金の存続にかかっている。いつまでも明快な返事がないことに失望した英語の教師は学校を去り、新たな仕事先を探っているそうだ。変わりにホッサンさんの長女、サブリナさんがカレッジの休暇を利用して英語を教えていた。「もちろん支援しますよ」と私が答えた時に先生たちの間に広がった安堵の表情。このいきさつを目前に体験して、人の生活に責任のある立場になったことを新たに感じるとともに、このような事柄は常に具体的、現実的に処理しなければならないと反省した。だが、かくいう私だって資金をつくれるだろうか、といつもひやひやしながらやっているのだ。しかも何年間も継続することになるのだから。ハク氏が病気になって、夫人は決定をすべて私に一任するようになった。決定をするとお金をださなければならなくなるからだ。(教師2人の給料は学校の教室建設支援をしてくださったSRIDという婦人会が3年間引き継いでくださることになりました)

 Sakura Mohila のレポート第2号を思い出してください。この顔に覚えがあるでしょう。
彼女たちは私たちが村にいると聞きつけて学校帰りに会いに来てくれたのでした。暑さの中で顔を紅潮させて、間に合うように急いできたのです。ハイスクールに通い始めてピンクの制服を着ていました。こんな時、「よし、やるか!」と、やはり思ってしまうのです。
できるだろうか、という不安と、「やるぞ!」という決意が行ったり来たりして6年の時がいつのまにか過ぎてしまいました。


ホッサン家の居間の前で

部屋に入ってきた時の先生たちの固い表情
 

 サクラ・モヒラ・ショミティの女性たちは全員が推薦して決めたリーダーのもとで着実に会の資金を活用していた。話会いのために教室に入ってきた女性たちは27人。都合が悪く出席できなかったのは2人である。彼女たちと会うのは3回目だが、今回の雰囲気は明るかった。山羊20頭、牛15頭は雨期の洪水で飼っておく場所がなく、売り払ったものの、そのお金を利用して生活の改善に役立てていた。中にはあちこちのNGOに顔を出す女性もいるようだが、なんと言ってもSakura Mohilaからは金利3%という有利な条件で借りられるので、喜ばれ、返済もきちんとしている。リーダーの女性には世話人として給料を1年という条件で払ったが、もう1年給料の面倒を見て欲しいと要望があった。さらにあと同額のお金を貸してもらえれば、2年で返済できる、と堂々と意見を述べた。今回はハク夫人が話し合いに同席していたので、最終判断は彼女の意見を参考にすることにして、即決は避けた。だが、リーダーの給料だけは保証した。
 ダッカに戻り、ハク夫人の意見を伺ったところ、このリーダーの女性はリーダーとしての器量を備えていて、女性たちの人望も高いばかりか、彼女たちを制御して、しっかりとチームをまとめているようだ。トレイディングは彼女たちを支援するために立ち上げたのだから、援助してほしいとハク夫人に頼まれた。「いいでしょう」と、この頼りない私が精一杯がんばって、またもやこのような返事をしたが、内心ひやひやしながら、頭でそろばんをぱちぱちとはじくという構図。だが正直なところ、私が時間仕事やパートタイムで貯めた雀の涙ほどのお金が何かの形を成して行くのを見る時、それは曰く言いがたい感動である。気がついたら、村からの帰路のバスの中で、「今日はほんとにいい日でしたね」と何度もくり返していた。そしてバスの中のそれぞれがそれぞれの想いでこの小さな進展を素朴に喜んでいたように思われた。なによりも、「お金を受け取ったら村の女性たちは食物を買ってしまう」と危ぶんでいたハク夫人はひとまずはほっとしたようだ。
 話合いの途中で、一人の息子は監獄に、もう一人の息子は精神病で、と孫を7人抱えた女性が特別な援助を申し出たが、これは断った。後で知ったのだが、ハク夫人が個人的に1000タカを与えたそうである。これは普段着のさりーなら2枚くらい帰る額である。

 女性たちがこの資金を役立てた用途の数例を紹介しよう。
 返済は1ヶ月から1年と幅があるが、一人の女性は土地を買った。その土地で住まうとともに野菜を栽培したりなどして生産に使うことができる。もう一人の女性は、お金を借りて、娘の結婚費用を支援して、その結果一人分の生活経費を削減できたので、返済した。なお、このお金を持参金ではなく、あくまでも援助資金であるということだ。また、ある女性は娘を外国に出稼ぎに出しその仕送りで返済した。
  彼女たちはタイミングを見計らってまた山羊、牛を買うそうである。


几帳面に記録されたノート

ショミティのリーダーと女性たち 表情の明るさに注目

 帰国する日、空港に向かう車の中でハク夫人が言う。「リーダーの女性は申し分ありません。でも、お金を貸して、返してもらおうと思っていないでしょう?」私はしっかり反論した。「返済してもらいます。彼女たちはそのために一生懸命働くのだし、そのお金で次のことができますから」何よりも返済は社会のルールだ。
 ここで、はからずも意識の差が露呈したのはおもしろかった。かの地の新聞にはマイクロクレジットで成功した女性の記事が頻繁にのるのだから、知らないはずはないのに、新聞の話題になる女性と、現実に村に生活する女性は彼女にとっては違いのある人たちなのだ。彼女はこの社会では常に恵んであげる立場の人であり、それが理屈抜きで血の中に染み込んでいる。事実、私たちが滞在するたびに、村の女性が畑で収穫した豆や野菜を手土産に、どこかの子どもを連れてやってきては、サリーやお金をもらっていく姿を見る。彼女にとって、この女性たちは時に煩わしい存在であり、対等な権利を持った人と見ることじたい、訓練を要することだ。

 

 バッシャ君が突然「シャツ3枚」を私たちの荷物に入れて送ってきた。発送した後のメールで自分が気に入った布で作ったから売ってほしいと言う。請求書もちゃんと入っていた。私はおっちょこちょいだからてっきりプレゼントだと早合点してしまった。彼は後日また、上着を3枚、私たちの荷物といっしょに送ってきた。後からのメールで曰く、カットを間違えて、自分の店においておいてもそのままロスだから売れたら払うという形で売ってほしいと言う。私たちのデザインそのままで、どこがカットのミスなのだろう。そして請求書はしっかり入ってくるのだ。まだ売れてもいないのに…。
 こんな時、私と妹は激しくけんかをしてしまう。妹は服を作る人間だから彼のこのような態度は理屈抜きで許せない。私もショックだが他人がバッシャ君を攻撃すると、なぜか弁護してしまう。すると妹は、なによりもよい服を作らねばならぬという意識を持つべきテイラーが金勘定をしているともっと怒る。姉妹で、そんなどうどうめぐりのけんかを繰り返し、気まずい無言の中で受話器を置く。私にすれば、一生懸命働いて家族の面倒をみている彼が不誠実であるとは信じがたい。とは言え、あまりいい気分でないのも確かである。以前ならハク氏がドカンと雷を落としてそれですんで済んでいたが、今は私がけじめをつけていかねばならない。
 ただ、そのような妹も実際に彼の工房に出向き共に作業を重ねる中で、彼女の怒りを忘れてしまう。彼らはほんとによく働く。月、月、火、水、木、金、金のペースで働く。そして稼ぎたい。バッシャ君は経営者だから諸々の経費や給料も払わねばならない。そして彼らの階級では報われない労働の値段が彼の前に立ちはだかっている。
 以前、彼はよく失敗をくりかえした。ハク氏は、ビジネスはかくあるべし、とそのような失敗は有無を言わさず請求書から差し引いた。私はそれでも、なぜこちら側がその損失をカバーばかりしているのかと不満に感じていた。今回、ハク氏が病気になり自分がなにもかもしてみると、見えなかったものが見えてきた。ハク氏は筋をとおしながら、バッシャ君に余分な服をたくさん注文したり、カットした請求書の仕立て代を自分のポケットから補って、彼を支援していたのだ。ふと、ハク夫妻が村の人たちに腹を立ててスチームがあがらんばかりに怒鳴っていたので、その理由を訊ねるとハク氏はいつも「なんでもない」と言っていたことを思い出した。どんなに腹を立てても、私には「貧乏だから…」と言って、決して自国の人を悪く言わなかった事実が今になって心に浮かび、複雑な気持ちになった。買う、払うは簡単だけれど、自分にどこまで彼の役割が果たせるのだろうか。
 とはいえ、バッシャ君ともう一人のスタッフはすばやく学び、すばらしい服を作りだすようになった。するとハク氏は自慢する。独特の日本語を駆使して、「どうでしょ。こんなに速く学ぶテイラーが世界のどこにいるでしょ」と繰り返す。「バッシャは誠実でよく働き、信用できる。」そして彼に言う。「君が誠実なら、この日本人も信用して大丈夫。決してだましはしない」それにつけても、ちょっと気になるバッシャ流自主的販売方法である。
 
 バッシャ君の家は店から歩いて4分だという。お父さんは毎日来る。そして私にプレッシャーをかける。ちょっと彼を苦手だと感じていたら、ある日、食事に招待された。ハク夫妻も一緒に招待された。「断わったら彼らは怒りますよ」と夫人が言って、4人でバッシャ家のテーブルの客になることになった。
 薦で被っただけのような八百屋や魚屋があり、小さな駄菓子屋があり、何の店かわからない小さな店を過ぎて、インドとアラビアが交じり合ったような印象の小石の塀のある路地を入って行くと、5階建てのアパートメントにたどり着く。雨のたびに水浸しになる場所なので、いよいよ土管を埋めて排水の工事中だった。そして建物の前には池ができていた。お姫様育ちのハク夫人はこのような場所は自国の異国である。歩けないから、何人もの人が「OK,OK」とガイドして車がやっと通れる路地を、ぎりぎりまで車を使い、安全で平らな建物の入り口までなんとかこぎついた。この道を戻る運転手が気の毒になった。しかも、この状態だからこそ、「池」を渡るために必要になるリクシャが常に行く手を遮るという条件つきだ。だがこれをこぼすようではダッカのお抱え運転手は務まらない。

さて、バッシャ家では初めての外国人を招待するとあって、お母さんが狼狽し、バッシャ君はハク夫人に「どんな料理をしたらいいでしょう」と聞いてきた。それでハク家のマレク君が派遣されバッシャ家のキッチンで料理を作り、昼の準備をするために自分の奉公先へ戻っていった。テーブルは4人用なので、客の私たち、ご両親と末娘、バッシャ君と妹、従兄弟のバブー君の3段階に分けて皆で食べた。ほんとに山ほどのご馳走が並んでいた。バッシャ君は嬉しそうだった。そしてデジカメで写真を取りまくっていた。皆、緊張しながらも嬉しそうだった。お母さんと末娘は写真をたくさん持ってきて見せてくれた。私はオカリナでお礼の演奏をした。曲は「あの故里へ帰ろうかな、帰ろうかな…・」これはハク氏が大好きな歌詞で、時々家で手伝いのメンバーたちと歌う箇所である。
 
バッシャ家では子どもたちはベッドに直角に並んで3人ずつ寝る。めぼしい物はテレビくらいという質素な住まいながら、きちんとしていて、部屋中にお母さんの気配りがあり、私たちは皆、清清しい気持ちになった。
 
ところでバッシャ君は結婚できない。妹たちが3人いて、弟、田舎から引き取っているお母さんのいない15歳の従兄弟のバブー君の面倒をみている。妹たちを嫁にやって“生活コスト削減”が終わるまで待つしかないのだ。確かに彼は独身ながら、しっかり頼れる親父になっている。そして11歳の妹、従兄弟のバブー君が家族のだれからも可愛がられているという事実がわかるにつけ、この家族の人たちにほっとする。(注文を増やして…というプレッシャーだけはチョットネ…)

シルクを買う代金は前払いでバッシャ君に送金する。初めは躊躇もしたが、彼はきちんと報告してくれる。今では安心して送金し、その額も少し多くなった。バングラデシュでは賄賂を要求されたり、お金をごまかされたり、という話をよく聞くが私たちがそのようなトラブルを皆目経験せずにすんでいるのは、なんという幸運であろうか。むしろ、よく働く彼らの姿や、家庭を一生懸命守ってきりもりするおふくろの存在のお母さんが印象的である。地元のお母さんが男の子を連れて来て、赤い蝶ネクタイや黒いスラックスを注文し、男性たちがスラックスや木綿のシャツをオーダーに来る地元のテイラー、バッシャ君。彼は大きな夢をいだいた「親父的」青年だ。


仕事を覚え始めたバブー君


はり切るスタッフ

 さて、Fashion Gallary(これはわざと綴りを変えたバッシャ君の美的センスによるもです)から生まれる服、手織りのシルクなど、Sakura Mohila Tradingに携る人たちの物語などを思いながらお楽しみください。春にふさわしい素材の手織りのシルク、手仕事を贅沢に使った服など、楽しいものが揃い始めました。紳士用シャツも加わりました。

 
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