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No 8. April 15 〜 24, 2007
街角で大きな実を誇る国果の
ジャックフルーツ

工事現場の前で
朝ごはんのルティアタを売る屋台

公園前の路上の盆栽店

 

 バングラデシュ国営のビーマンバングラデシュ航空の成田―ダッカ間の運行が突然廃止になった。「理由はわかりません。価格の安さがタイ旅行の学生たちに人気だったんですがね…」と旅行代理店の担当者が言った。新聞によると、機体が足りず、アメリカ、ヨーロッパ路線も停止になったそうだ。同じ「The Daily Star」というバングラデシュの英字新聞で、その数ヶ月前にビーマンバングラデシュの問題点をあばく特集があった。外国人のみならず国内の利用者も少なからず不満を募らせているようだった。サービスが悪い、汚いというお決まりの不平とともに賄賂にも言及してあり、記事の内容は好奇心を充分満足させてくれた。例えば、バナナを普通一束1000円で買うとしよう。それがビーマンの書類上では、5000円くらいになるそうだ。修理も外国で頻繁にする、ことになっているそうだ。実際に故障した時にはそれまで。記事を読みながら、これでは人をバングラデシュに誘うことができない、と密かに心配していた矢先、向こうから先に停止を決めてくれた。
 乗り継ぎの悪さと費用の増加を気にしながら、やむなく選んだタイ国際航空で2日かけての首都ダッカ入りとなった。偶然にも旧正月のお祝いの時で、蘭の花束やポプリの贈り物があり、香りのついたおしぼり、熱い紅茶、おいしい水、食指の動く食べ物があり、座席も破れておらず、ひざ掛けも足りていて、機体が清潔できれいだ。ここだけの話だが、よもやビーマン航空のサービスが再開しても、もうあの状態の飛行機には乗れないだろう。
後日の記事によれば、ビーマン航空は燃料費の支払いも滞っているそうだ。
 1月に実施されるはずだった選挙がいまだに実行されず、現在軍部を基とする暫定政府がクリーンアップキャンペーンを展開し、賄賂で逮捕された大物は30人や40人では終わらない。選挙民のリストが不完全だのなんだのと野党は交通を止め、あちこちでタイヤや車に火をつけて、あらゆる暴力手段を駆使して選挙を妨害し、あげくは最大野党のハシナ党首は殺人罪で、首相の側は夥しい賄賂の罪で国外追放だの、なんだのと、劇的な人間模様が展開している。暫定政府は国民の期待を追い風に、路上で商売をする人たち、路上に張り出した店舗を一掃し、ショッピングモールにも駐車場の確保を言い渡した。電気の不足に配慮して店舗の営業は7時までと規定された。正義が実施されているダッカの街を歩くと、黒装束の軍部取締り係と国防服にライフルを持った軍人の眼光鋭い目が光り、街はなんとなくこぎれいに見える。路上で稼ぐ手段を失った人たちは、生活の糧を他で得ようと、とどのつまりは軽犯罪が増加しているそうだ。
 政治のどさくさの影響で交通が麻痺し、輸出業者は少なからず弊害を蒙ったものの、経済は好調でダッカの成長は目覚しい。次々に開店するおしゃれなレストランや店舗やマンション。空港から市内に入る道路も植え込みできれいに化粧されている。新しいインド料理のレストランに招待があった。以前、そのような高級レストランでは客たちは服を改めて食事を楽しんでいたが、今回見回すと、何組かの客たちは普段着でテーブルについており、まるで私たちがデパートのレストランに家族で繰り出したかのような日常的な光景だった。「みんな、こういう場所で食事を楽しむようになったんですね」と感想を洩らしたら、「この場所は値段が高い。このようなレストランで食事を楽しむことができるのは国民の5%です」と答えが返ってきた。としたら、変わったのは晴れの場所に普段着で行くという5%の上層部の意識かもしれない。絹を着て人前に現れた旦那様、奥様のように貧民に施すという習慣も消滅したのだろうか。今年のバングラデシュの冬は異常に寒く、食べ物も衣服もなく、凍死した人たちも何百人かいたようだ。
 ダッカ入りした翌日、パーティーに招待していただいた。40人ほどの人たちが集まり、モスラム暦の正月を祝うのだそうだ。7時くらいから集い始めて、ノーベル文学賞に輝く同国人、タゴールの詩を歌い、踊り、ハーモニアムやドタールなどの楽器を奏でて時を過ごし、10時くらいに食事が始まって、ご馳走を食べ終わった人からさっさと帰り始める。飽き足らない人はそのまま居残って、2時くらいまでタゴールを楽しむということだ。客たちは、男女問わず着飾って、特に女性たちは美しい絹のサリーに宝石を合わせていて、それを眺めるだけでも楽しいものである。
 時は、折りしも、マンゴーが色づかんとするころで、穂先に残った一つの花が実として成長し、私たちが滞在している間に、どんどん育って枝先で揺れていた。公園を歩いていたら、ドンと音がして足元に割れた蒼いマンゴーが白い果肉を見せて横たわった。蒼いマンゴーは塩味のジュースに作られていた。初めて飲んだが、実の色さながらの蒼い味がした。ジャックフルーツも幹から直接大きな実をぶら下げていた。日本の西瓜ほどの大きさの果実が上方に揺れるさまは、まさに異国情緒である。ジャックフルーツは国の果物だということだ。街のあちこちに果実の木が植えられていて、人は比較的自由に実を収穫して食べている。公園内の果実もどさくさまぎれに収穫されて、ちゃっかりマーケットの商品になっているようだ。
 新しいユニヴァーサルなビルが次々に建ち、成長するダッカ。かつては現金を稼ぐためにとりあえずリクシャ引きになっていた男たちにも今では多少の選択が生じ、リクシャの数は減ったそうだ。公共の交通機関はそれなりに発達しているのだろうか。やたら自家用車だけが増えているような混沌の道路状況である。以前見かけた「中村焼鳥店」という漢字の書かれた車はもはや見かけない。車もおしゃれになってトヨタ車以外も少しずつ増えている。
 国の収入を押し上げているのが、国外へ出稼ぎに出た人たちからの送金である。忘れていたが、バングラデシュは労働力輸出国だった。成田空港で携帯電話を使い、日本人さながらに流暢な巷の日本語を操って、中古車販売をしているディーラーに会ったのは最近のことだ。初めての年に、両手と背中にお土産用の古着を持てるだけ持っていた夫婦とビーマンの飛行機に乗り合わせたことがある。そんな人にはもう出会わなくなった。私がバングラデシュに関わった8年の経緯はこの2様の差であるように思われる。

 
4年前に植えた校庭の果樹
教室の風景

 6時、ダッカを出発の予定がいつもどおりに、バスは30分遅れて到着。それから運転手が朝食を取り、結果として予定どおり1時間ほど遅れて、出勤ラッシュの混雑が始まる前のダッカをナラヤンプール村に向けてやっと出発の運びとなる。今回、日本から母娘2人の客人があり、案の定彼女たちは宿泊先のホテルでどうしたものかと気を揉んで、待ちに待ったあげくに電話を入れていた。でも、1時間は遅れないとバングラデシュじゃない、かもしれない。前回の燃料に伴うトラブルからハク夫人が数時間怒鳴りっ放しだったと7号で報告したが、その甲斐あって今回は礼儀正しい経験豊かな運転手が配されてきた。ただし運転手、燃料付きでバス代は2年前の2倍に値上がりした。
 見慣れたはずのナラヤンプール村への道すがら、村の人たちに想いを馳せながら、何か様子が違うことに気がついた。少しずつ道路や村の情景が整ってきたり、新しい建物ができたりして、やはり変化が起きている。バザールの張り出したお店と何の用があって集っているのかわからない人たちでごった返し、そこにリクシャ、スクーター、バス、自家用車が加わって押し合いへし合いだったバザールの数十メートルを比較的すんなりと通過できたのだ。序章でも書いたように、店の張り出し部分は規制され、ここでも店舗を引っ込めたり削ったりという過程が進行しているようだった。ただし、新しく建てているのか、壊しているのか、最後まで見届けないと判別できない。 
 驚いたのは、ナラヤンプール村に程近い道沿いに、おもちゃ、アクセサリー、バッグなどのぜいたく品のトタン囲いの屋台が出ていたことだ。半年の間にこんなに変わったのか、と感慨にふけっていたら、イスラム暦の正月で市ができているのだと教えられた。なるほど、村の人たちはこのような場所で買い物をしていたのだ。どの屋台もサクラ・モヒラ・トレイディングの行商品より少ない規模である(別に優越感を感じているわけでもないけれど)。
 もっと驚いたことには、村の小学校の田んぼを挟んだ隣にビスケット工場ができ、その直売店が校庭から道路に上がった場所にできていたことだ。トタンの建物だが、村にも新たな雇用が生じたのだ。そろそろ食べ物の支給を本の支給に代える時かもしれない。

ビスケットは1個単位売り。
村の人たちはどんな顔して
買うのだろうか。
だれが何個買っていくら払ったか、
皆でじっと見ていて、
重大事件のように
話題になるのかもしれない。

 ナラヤンプール村小学校が地域ではあこがれの場所になっている旨、7号で報告したが、それでも登録者の100人近くはきちんと出席していない。理由は働かなければならないこと、着てくるものがないことなどだ。100人とは胸が痛むが、どうしたらよいのだろうか。
 教師たちも村の教育係のアンワー・ホッサンさんも現実は現実として受け止めている。ハク氏はかつて元気だった時、「私の国の子どもたちが読み書きできないなんてなんと情けない!連れに行ってこい!」と小学校の校長先生にカツをいれていたが、現実は彼らに他の選択をさせているのだろう。私もピントはずれに、ホッサンさんに、もう食べ物の支給をやめて本に代えましょうか、と理想に燃えて提案したら、昼ごはんを忙しくほおばりながら彼は答えた。「我が家のように本を読む環境に育つ子もいるが、ほとんどの子どもたちは親も家におらず、働かねばならず、食べる物もないまま、本など2の次、3の次…」。というわけで、現実把握の乏しさを恥ながら、次回のビスケット支給は村の工場から調達することにしよう、と考え始めている次第である。

 4年前に植えた果樹が大きく成長した校庭に、小さな子どもたちが走り出てきて、小さな 腕を伸ばして整列し、太陽の光の中で大きく口と目を開いて歌いだす。「アマル・ショナル・ ベンガリ…♪…」タゴールの詩による国歌だ。今回は日本からの客人があるから、とホッサンさんも私たちのバスに2〜3回電話を入れて、準備万端を心掛け、失礼のないように緊
張していた。子どもたちも行儀良く振うように指導されたらしく、いつもの調子がでていない。思わず立ち上がって歌いだそうとした子どもたちが、「座りなさい」と先生方に躾けられていた。ハーモニアムを代表で演奏した少女は持てる限りのアクセサリーで身を飾り、孫の晴れ舞台をおばあちゃんが見学にきていた。どこから来たのか、村の人たちも大勢来ていた。今や村の大行事となったコンサートは、村の人たちも、私たちも誇りに思い、続けていきたいことの一つだ。
  そしてナラヤンプール村の小学校にもう一つ誇れるプログラムが加わった。7号で報告したように、子どもたちが初めて描いた絵が埼玉県近代美術館で展示された。見ているうちに、展示だけで終えてはいけない、という気持ちになり、何枚かに短い文をつけて絵葉書を作ったところ、好評でいくらかの収入になった。それに少し足して紙を500枚とクレヨン100個をダッカの店から買うことができた。張り切ったのはだれあろう、ホッサンさんだ。「子どもたちの描いた絵葉書の売り上げで文具が買える!」教室で子どもたちに絵葉書と、紙、クレヨンを高々と掲げて見せて、説明する彼の胸は反り返り、早口に出てくる喜びの言葉が決して止まらないかのようであった。さっそく絵の先生を捜し始めているそうだ。彼は自分たちの子どものためにと掘っ立て小屋から学校を立ち上げたのだが、今や校舎はコンクリートブロックになり、学校には数学、英語のクラスの他に音楽があり、新たに絵のクラスまでできるのだ。そんなわけで、私たちの帰国前日の夜、ハク家に電話をかけてきて、私たちが「喜んでいるか」どうかと訊ねたそうである。
  「嬉しいですよ。子どもたちが誇りを持って成長してくれたらね。」
 けれども、彼にも学校運営に関して頭の痛いことがある。政府の送りこんだ教師とこちらが雇った教師の一人との関係がどうもうまくいかないらしい。公務員の教師は余分に働きたくないが、こちらが雇った教師は実績をあげないと首があぶない。そして失業率45%のかの国では、田舎で職があるということはなににもまさる生活の安定である。
 ホッサンさんが現実の問題を解決しようと四苦八苦している姿を知ると、ほっとする。彼が無償で奮闘しているのだから、私だってがんばろう、と同志を得たような気持ちになるからだ。

 村の小学校を訪れる方は、何か楽器をお持ちください。
 演奏曲目には「We shall overcome…♪」が必ず入ります。


熱弁をふるうホッサンさん(上)
日本からのゲストに花束を(右)

 
作業場で

 女性たちのマイクロクレジットは順調に定着している。リーダーの女性が皆をまとめてきちんと運営し、その収支報告をベンガリ語できちんと書いて見せてくれる。各々、山羊や牛を買い育て、現金収入を得ているようだ。物入りの折りにもショミティの資金から3%という利息で借りられるので、おおむね、皆、満足だ。日本の預金利子に鑑み3%の利息と聞けば、私があたかも暴利を貪る高利貸しシャイロックであるかのような印象に写るかもしれない。だがバングラデシュが誇る、ノーベル平和賞受賞者、ユナス教授が運営するグラミンバンクの貸し出し金利でさえ今や15%に達している。この村の女性たちには手が出ない利率である。しかも世話係の給料も私が持っているのだから、彼らの政府よりもありがたいはずだ、と不遜にも考えていた矢先、ハク夫人が一人のメンバーから質問をされたそうだ。「資金を返さなければならないのでしょうか」ハク夫人は答えたそうだ。「彼女は返せ、なんて言いませんよ。」「えーーーーっつ!その答えにはびっくりするなあ。2年で返すという約束です。私は返してもらいます。その上で何に使おうと私が決めます。もらう、ということを教えないでください。」(これは心の叫びで小心者の私は声に出して言えないかもしれない。それでも、がんばるぞ!)ハク夫人にとって、訓練して能力をつけてやるよりは、ポンとお金をだして終わりにしたほうが簡単で、施しという美徳をもアラー神の前に蓄積できる。しかし貧乏人で信仰心も乏しい上に、資金作りに奔走する私は、「効果的」なお金の使い方をしたいのだ。

 問題は裁縫の教室だ。彼女たちのないない尽くしの仕事場環境と技術で、何ができるか考えて、こちらで「お仕事キット」のように整えて、仕上げるだけにして渡してくる仕事の出来栄えは、前回のラマダンの時には思わず笑い出してしまうくらい質が悪かった。仕事がない時くらいミシンの技術を学びなさい、といいたいところだが、先生も「練習だから」と質の悪さに頓着しない。そして彼女たちは稼ぎのないことには興味を持たない。こちらは粗悪品の製造を頼みたくない。と、今、少し悪循環に陥っている。教室に通う女性たちは少しミシンを学んで、「ミシンができます」という有利な結婚条件をつけるそうだ。それなりに役に立っている教室かもしれないが、実は女性たちは稼ぎたいのだ。こちらの仕事がある時には参加者が増え、それが終えると減ってしまう。「もっと技術を磨いて、自分で地元の仕事を取りなさい。応援するから」、と言ってきたが、それと同時にこちらからもいつも仕事があるように計らなければならないだろう。
 今回2人のテイラーが待機していた。自信のない先生が息子さんと友人を呼んだものだと思っていたら、どうやら村のテイラーたちがあわよくば日本からの仕事にありつきたいようである。
 ダッカで選んだサリーをあずけて、テーブル用マット、ティーマット、コースター、ワインのビン入れなどの製作を注文したが、どれも村の生活にはないものばかり。コースターには、とまどって、こんなにサリーを切り刻んで、一体何に使うのか、と不思議に思ったらしい。小さな四角を縫うだけの仕事なのに、想像もできないから、何度言っても袋のように入口を作っていた。その都度ほどいて、やり直しをしてもらい、小1時間を費やしてやっと完成にこぎつけたのだが、後でリーダーさんと値段の交渉をした時、彼女はこう言った。「小さな物は繊細で難しいから、高くなります。」彼が理解できなかっただけですったら、と言おうとしたのに、先に笑いがでてきてしまった。彼らの生活に無縁の物なのに、支援を名目にして、高みから要求する自分は一体何様のつもりだろうか。サリーは日本の人たちを意識して、村の女性たちの着ているものより質の良いものである。それを何に使うかさえ知らない人たちに、指示通りに切り刻ませて、出来が悪いとほざくのだ。
  リーダーさんは、「物価が上がっているから」と自分の給料の値上げも要求。しっかりした女性だ。しかしこちらも負けるものか、とばかりに言い渡した。「皆、簡単に値上げを要求するけれど、裁縫の先生は責任を果たしていません。この次、仕上がりが悪かったら、減給します。」そういえば、彼女は給料の値上げも要求したことがない。自信がないのだろうか。閉鎖的な村の生活の中で、減給や解雇の噂が飛んだら、彼女は肩身の狭い想いで生活しなければならないのではないだろうか。
 たかが、ただの四角い物を縫うだけの仕事の説明に、3時間はゆうにかかる。しかもダッカであらかじめ図を描き、サンプルを1セット作って、準備をした上でのことだ。問題はいつもひとつ。「あなたたちは何ならちゃんとできるの。まずそれを身に着けなさい」

 サリーのマット、バッグなどが仕上がったら、交換に刺繍入りのハンカチーフを作ってもらうことになっている。刺繍なら得意だから、手仕事の注文がほしい、という要望がリーダーさんからあったのだ。一度にたくさん仕事を渡すと、パニックをおこして雑になるから少しずつ。やれやれ。
 6月28日(木)〜7月2日(月)の与野駅西口Cafe Gallery SHINEでの販売会に、彼女たちの仕事が並びます。ゲキを飛ばした効果のほどはあるでしょうか?それはともかく、サリーの布は異国情緒に溢れて、楽しいテーブルウエアができそうです。

 

刺繍をする女性たち

ワックスの型押し作業

蝋の型が収納されている天棚

仕事の合間にお茶の時間

 生産はクムディニという企業に、サクラ・モヒラのデザインとパターンで制作を依頼している。本社はナラヤンガンジという場所にありダッカから車で1時間半ほど、衣料産業が集まった場所である。その昔、スコットランドの会社がジュートを輸出するために建てた東インド会社の頃の建物を買い取って、仕事場と本社にしている。何度か訪れて、そのたびに歴史の旅をしているような香り高い場所であるが、それよりも気分がいいのは、ここでは従業員が大切にされていて、バングラデシュとは思えない職場環境があることだ。いつ訪れても、同じ人が同じ場所で淡々と作業をしている。最近、環境に対する配慮や伝統的な染めや手芸を国の資産として残そうと、自然素材の植物染料を使い始め、風合いのよい布を作り始めている。ノクシカンタの針仕事も感動の声があがるものができている。 
 
 サクラ・モヒラのオリジナルシリーズのテーブル・マットやポットのカバーはベンガリコットンの自然染めです。また絹のノクシカンタも注文依頼し、美しい手仕事の服ができてきます。是非、お楽しみに、販売会へお出かけください。

 
 奨学生が決まった。ホッサンさんが地域紙で公募したところ、大学生全員が応募してきたそうだ。それで、4人全員に補助金として奨学金を出すことになった。少なくとも彼らは大学に行ける経済力のある家庭の人たちなので、本代などの補助である。写真左から順に、商業、地球学、科学、英語を学んでいる学生さんたちである。そしてもう一人、ハク家の運転手コビールさんの長男が奨学生に選ばれていた。金銭が差し迫っている家庭である。彼には郷里の両親、兄弟に給料の半分を仕送りしているという事情がある。彼に私の古いデジタルカメラをあげたら、嬉しくて、嬉しくて……最高に嬉しくて。初めて撮った長男の写真が7枚も、メモリスティックに入っていた。長男本人を呼び寄せて、私たちと対面させたりもした。「家内がとても喜んでいる」と英語で言った。彼の撮った写真から、生活の背後が見えて、そのことにも興味をそそられた。「こういう場所で生活しているんだ…」

コビールさんの長男と彼の家

4人の奨学生 背後は村のお偉方

 ハク家に奉公するM君は、料理係だったおばあちゃんに連れられて11歳から働いている。母親が他所の男と家を出て行ってしまったからだ。料理係が着古した木綿の端で涙の顔を隠した時、悲しみが始まっていた。M君は今19歳。小学校を卒業していない。頭が抜群に良い少年だ。村の子どもたちの絵が日本で展示されると聞いて、彼は自分の描いた絵を何枚か私のところに持ってきた。同じように展示してもらいたかったのだろうか。後日商品用に印刷されたその絵葉書を見て、失望の表情で、「きれい」と言った。運転手の長男が日本から奨学金をもらって進学できる。彼はそれにももれた。ついてない人生、だと思っているかもしれない。

 

 対処すべきことが次々に起こる。日々、自分の力のなさに情けない想いを募らせるばかりだ。脱毛症とか総白髪とか、うつ病になって次の世に旅立つことになるかもしれない。だが、身にあまる方々のご支援をいただいて、どんな状況でも目だけは澄み切って幸せな光が宿っているだろう。バングラデシュのナラヤンプール村に関って8年が過ぎた。能力があろうとなかろうと、「ここまできて四の五の言ってられっか。やるっきゃない!」とだんだん居直ってきているところである。

 ご支援、あらためて感謝申し上げます。

 
 過去のレポートは、http://www.sakuramohila.com/about/report.html からお読みいただくことができます。
量産が可能になりました。委託、販売など、ご利用くださるとありがたく思います。


 自然素材のサクラ・モヒラオリジナル。     
上はベンガリ綿に黒の裏、手刺繍。
染料は植物。
文庫本カヴァーは売り切れ。

右は絹の小物入れ。手刺繍。
裏の小分けポケットは
シルクオーガンジー。

 

子どもたちの絵から作った
8枚の絵葉書。

それぞれに短い文がついて、
村の生活を物語る。
日本語版  8枚 ¥800
英語版   6枚 ¥600
文具、図書の購入に使われます。
ご利用ください。

 
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