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No 10. January 8 〜15,  March 5 〜 14, 2008

ダリアの花が咲く公園の管理事務所

萌え出るマンゴーの若芽

ダッカの公園の苗床に育成するサルビア
 

 1月の冬のダッカ、3月の早春のダッカと2ヶ月の間に2回の旅となった。今年で9年目を迎えるプロジェクトだが、このように短い間をおいて訪問したのは初めてである。ナラヤンプール村の子どもたちの絵を通してお世話になっていたグラフィック・デザイナーの渡辺隆夫先生が、ある日突然、「スペイン行きを止めて、その代わりにバングラデシュに行ってみたい」とおっしゃった。「スペインならいつでも行けるけれど、体力・気力のあるうちに途上国に行ってみたい」ということだった。
 私は生産に絡む用もあったので早く出発し、後日、ダッカの国際空港で先生を出迎えることにした。旅慣れた先生のことだから大丈夫と高をくくっていたら、言葉が通じない先生は思わぬ勘問に四苦八苦したあげくやっと入国許可と相成ったようだ。
 乾季のバングラデシュは樹葉が重そうに塵芥をまとい、緑と茶色の2層の葉が風景を埃色に見せている。先生は、「緑の葉が緑に見え、水がなみなみとあたりに満ちた頃にもう一度来たい」と何度もおっしゃった。
 村の子どもたち、#7で紹介したダッカ郊外にあるカレク・メモリアル・スクールのストリート・チルドレンに絵を教える、という活動を通して、バングラデシュ人の暖かさに胸を打たれた先生は、帰国してからも「もう一度行きたい」と繰り返しておられた。
 その言葉が嘘のように、3月13日に渡辺隆夫先生は急逝された。
 恒例のクリエイターズ・さいたま展で子どもたちの絵の展示を終え、バングラデシュの二つの学校に新しいプログラムの種を蒔いていただいた矢先のことである。

 子どもたちの絵を基にした絵葉書、「エコちゃんからひとこと」の環境の本は先生が労を取ってくださったものであり、今後、一連の絵本の発行が毎年続いていくはずであった。本の売り上げを、私たちの記憶にまだ新しい昨年11月のサイクロン「シドル」の被災者に寄付してくださったのも、渡辺先生である。

 3月3日に、もう一人のサクラ・モヒラの恩人が不帰の旅に発たれた。高橋引吉パパは出勤の道を間違えて宇宙行きの列車に乗ったようだ。営業一筋で伸してきた引吉パパは、社会経験の乏しい私に「待ってました」とばかりに、いつも助け舟を待機させていてくださった。彼のご好意で頂戴した第1番目の注文をテイラーがこなす実力がないと判明した時、その注文、16人分のゴルフクラブのユニフォームの代金を自前のポケットからポンと出してくださった。6年前の懐かしくも苦いスタート時の思い出である。やがて宇宙と交信が可能になったら、「お蔭様でこのように成長しました」と報告したいものだ。

 2人の方たちのことを書きながら、サクラ・モヒラは多くの日本人の善意を集めている場所だ、と再確認した。ナラヤンプール村が「日本村」と呼ばれて、日本に対する信頼の場所になっていることは喜ばしく、かの地の歴史の小さなページを飾ってほしいと切望する。

 

制服を着た子どもたちとハク氏(右)

教師たち

 もはや2年以上、バングラデシュでは軍隊を基とする暫定政府が政治を取り仕切り、賄賂の一掃に取り組んでいることは前の号で書いた。なんと学校は選挙の準備の事務所と化し、1ヶ月間も休校だったそうだ。国民の登録が不完全で、一人一人の写真を撮り、選挙権のある人のリストを作るという作業が進行していたらしい。教師たちもそのような作業に駆り出されるのだ。野党が交通を遮断したり、車を焼いたりという激しい抗議をすることで、国民の権利を少しずつ勝ち取ってきた、というのが独立37年目を迎えたバングラデシュの歴史である。だが国際化が進んだ今、前時代的なかような暴力行為は、特に国際間の経済活動の妨害となり、貧困にあえぐ庶民をさらに貧困化すると国内外の評判はすこぶる悪い。おまけに与野党の党首を始め、高官の役得による賄賂をめぐる両者のせめぎ合いはあちこちの刑務所を「えらい人たち」で満員にするばかりだ。
 村人は国民登録が進行していてもしていなくても、田園的だ。与えられた運命をたんたんと生き、面倒な現実をやりすごす。これが忘れられた運命の人たちが生きる術だ。
 私たちが村行きを予定していた前後3日間が突然休校になった。選挙の準備として写真のチェックをするらしい。私が4月に予定されているプレゼンテイション用の写真が撮りたかった、と残念そうにもらしたら、村の教育係アンワー・ホッサンが教師たちにも呼びかけて、とりあえず制服のある子ども50人を集めてくれた。それで左上の写真ができた。
ナラヤンプール村の校庭から日本に向けて大きな声で叫んでもらった。「アッサム・オアライコム!」右は教師たちである。村の学校からの挨拶の声を聞いてください。

 村の学校には350人の子が来るはずである。途中から抜けていく子が約100人。250人前後の子どもたちが、2部制のこの学校で学んでいる。私たちが行く時には「食べ物」がでるので、当日はどこからともなく集まった子で満員になる。コンサートもあるので、親も、村人たちも来ている。日本人を見に来る人もいる。毎回の質問「おみやげは食べ物と本のどちらがいいですか」に決まって返ってくるアンワーの答えは「食べ物」である。この失望の「儀礼」を何度繰りかえせば、「本」がほしいという希望の答えに変わるのだろう。レインツリーの芽が息吹き始めた春の長い道をトランペット型のマイクをつけたリヤカーが右翼のキャンペーンさながらにがなりたてて行く。「子どもたちを学校に通わせよう!」政府が主催する毎日の教育運動だということだ。ダッカの街のあちこちにキャンペーンの絵が描いてあり、学校へ行くことの大切さを訴えているのだという。それでも、私の村の子どもたちの約100人は10歳を過ぎた頃から、2束3文の住み込み労働者となり、都会の家の台所の床で寝起きし、自分よりも大きな子どもの世話をするのだろうか。

 村の学校の校長先生が「制服がほしい」と言ってきた。とりあえず、小さい学年の制服のない子に与えたいので、50人分がほしい、ということだ。服があって通学できる子は何人増えるだろうか。

 今まではこちらがよいと思うことをする、という「スポンサー」側の主導体制だったが、校長先生初め教師たちがやっと胸襟を開くようになった。皆に挨拶するので、全員の写真を写すと言った時も教師たちは嬉しそうだった。1月に渡辺隆夫先生が訪問し、日本人の数人との交流を重ねる過程の中で、交流の心の基盤ができているのかもしれない。渡辺先生が絵の授業をして、その中で「自分の顔を描いてみよう」と言ったら、全員からブーイングを食らう羽目になった。「自分の顔なんか見えるわけがないのに、どうやって描くことができるのだ」というわけだ。これにはびっくりしたなあ! 
 そのような過程を繰り返して、教師たちも給料の値上げをのびのびと口にするようになった。この進展を喜び、同時に自分の懐を心配するこの頃である。なによりも嬉しいことは、ナラヤンプール村の小学校が地域では憧れの場所に育っていることだ。あたふたと夢中でこなしてきたプログラムの8年間だが、名前も知らない進級した子どもたち、結婚した子どもたちが、わざわざ会いに出向いてくれると、やってきたドタバタの期間はあながちむだでもなかった、とやっと気が楽になってくる。

 自分の描いた絵のページを開いて写真におさまる子どもたち。村の子どもたち、大人たち、ダッカの絵本を手に取った人たちが申し合わせたように口にした言葉は、「誇らしい」だった。絵の教師は「日本で絵の勉強をしたい」と言ってきた。彼のいない時の方が想像豊かな、自由な絵ができていたので、「自分の費用でしてください」とちょっと冷ややかに対応してしまったが、次回は暖かく断わることにしよう。
 

互助会の女性たち

裁縫の仕事場とメンバー

 サクラ・モヒラ・ショミティ(互助会)はもう独立して存続している。リーダーさんの下で、必要に応じて借り、返している。3%の利息を払うので、その利益も少しずつ増えて、元手は私の資金と彼女たちの積立金を合わせると、スタートの2倍以上の金額になった。リーダーさんはハク夫人に打診したそうだ。「女性たちに還元したらどうでしょうか」ハク夫人は私にこう取り次ぐのだ。「あなたのお金は彼女たちにあげるものとして、利息の分を彼女たちに返してあげてください」えええええっ!!! 気分を害し、しかもあちこちで「あげてはいけません」という情報を得て「知恵のついた」私は断固として言い返すのだ。「鐚一文あげません!」「利息と自分たちのお金でやっていけますから、もう援助は必要ではなくなりました。長い間のご協力、感謝申し上げます。しかしながら、完全に独立するにはもう少し力が足りないので、リーダーさんの給料は引き続き面倒をみてくださるようにお願いいたします」というのがスジでしょう、と私は心の中でかっかとしながら思うのだ。皆でよくも自分に都合のよい要求ばかりしてくるものだ。
 春の日差しが強くなりかけた昼下がりの庭先で、蔓草の棚の下に座って、女性たちと私の対決となった。「だいたい利息はだれのお金でしょうか。利息と自分たちのお金があればこれまでどおりの運営が可能なので、私の資金は引き上げます。リーダーさんの給料はもうしばらく面倒をみてあげましょう。利息はあげます。独立し、自分のお金で暮らすことで、あなたたちはプライドのある生活ができます」と(過激だがまともに)言ったつもりなのに、まるで奈落の果てまで突き落とされたかのように悲劇の話に展開し、数年前にはあれほど楚々としていた女性たちが蜂の巣を突いたよりももっと猛烈に、いかに私の元手の資金が必要か言い立て、しかも一様に「私たちはビンボウだ」と締めくくり、それをまたくたびれもせずに繰りかえすのだ。負けるものか!「だめです!私はあなたたちの政府でもなんでもない。お金がほしければ、自分の国のお金持ちからもらいなさい。それがだめなら人間として当然のことをしなさい」
 結論がでないまま、次の訪問まで結論を持ち越すことになった。言い過ぎたかな、と反省していたら、リーダーさんとアンワーは後から遅い昼食の時に、「組織の長として実力がついた。これなら任せられる」と親しみを態度に表した。ウッソーーーー!!!バングラデシュ人とはもうこれ以上関わりたくない。私は闘争型の人間でも、博愛主義者でもない。なんでもないサイタマのオバサンだ。ひたすら疲れるこの関係。だいたい、私に給料の値上げ、あれをしてほしい、これをしてほしい、と要求する前に、「ありがとう」はないわけ!ノーベル平和賞を受賞されたユナス教授も吐き出すように言われてしまうのだ。「あの守銭奴め!」お金を借りる時の利息が高いそうだ。スミマセン。言わせていただけるなら、私は外人の上、かのユナス様よりはかくだんに低い利息でお金を貸し、さらにリーダーの給料も払っているのですけれど……。リーダーさんのご主人の村長さんは、私はボランティアで仕事をしてあげている、と主張するけれど、彼に入る奥さんの収入と仕事場の家賃は「玉の輿」の収入源であるうえ、彼のボランティアの仕事たるや、銀行支給のメモ用紙に年2回バランスシートを写すだけではないか。しかも彼は村長なのだ。ハジヲシレ!だが俗なぼやきは密やかに心に留め、次回にもっときちんと話合うことにしよう。

 ショミティの女性が一人鬼籍に入り、彼女の積立金を子どもたちに返すことになった。

 裁縫の仕事場では、「もっと仕事がほしい」という要求だ。「仕事がほしければ、もっと全うな仕事をすること」と言って、指導を繰り返してきたが、今回の仕事は3年目にして、ちょっとよくなって、正直なところ、嬉しい。若い女性の一人はこの仕事が向いているらしく、これなら裁縫の教師を首にしてもいいくらいだ。ただし、裁縫の教師は実力不足を自覚しているのか、給料の値上げを要求してきたことがない。これは案外いいことかもしれない、と存続の理由を自分に提示してみる。なぜなら、先の若い女性は縫うのも上手だがミシンと同じくらいの速度でよくしゃべる。裁縫の教師は頼りなく静かに笑っているので、バランスがとれるからだ。変なバランスには違いないけれど……
 仕事をどのように増やしたらよいだろう。長い年月の間にハク夫妻はもとよりアンワー・ホッサンも年を取り、エネルギーが乏しくなった。村から日本に郵送は可能なのだろうか。若い人が都会まで出向いてやってくれる、ということは可能なのだろうか。
 これらが次の訪問の課題となった。アンワーは、プロジェクトが育つことに誇りを持ち始め、自分の手で記録を残そうと思い立ったようだ。帰り際に彼は意気揚々と私に言ったのだ。「ヒラマ、今度来る時はビデオ付きのデジカメを日本から買ってきてくれ。金は払う」私が自分のビデオ付きカメラの値段を教えたら、彼は息が詰まってしおれてしまった。

 ミシンの速度でしゃべる女性と仕事。その仕事場から生まれた作品。刺繍もきれいにできていて、これなら次の仕事に結びつきそうである。
 

 現在、生産は日本のさくら工房でデザインし製作する部分と、パターンと指導を日本から提供してクムディニというバングラデシュの福祉トラストに依頼している部分の2部門から成る。写真は、ナラヤンガンジという、ダッカから車で1時間半くらいかかる場所にあるクムディニの工場、兼本社と刺繍の仕事の女性たち、生産を管理するサハ部長とシュツさんである。サハさんという名前はインドの商業人の名前だそうで、クムディニの人たちは皆サハさんである。そしてシュツさんも含めてこの場所の人たちはヒンドゥの人たちなので、「アッサム・オアライコム」ではなく「ノモシュカ」と挨拶しなければならない。
 ナラヤンガンジという場所には衣料品の工場が集まっていて、布切れをさらに細かくして布団や椅子の詰め物などいろいろな繊維に関る仕事がある。その分流通のトラックが未整備なインフラの道路を行き交う交通量も多く、廃棄物や排気ガスで環境に悪い場所である。豊かな自然さえも工業品に汚れている印象だ。その昔、スコットランドの会社が自国にジュートを輸出するために建造した建物を買い取って本社にしているというロマンにあふれた場所なのに、処理できないプラスチック類が田畑を覆い、英国に続いていた河は淀んで悪臭を放っている。ダッカから離れている分だけ都市のアメニティもないようだ。
 だが、ここには子どもの労働者がいない。日本から行くとあたりまえのことなので気がつかなかったが、バングラデシュでは10歳くらいの子が働いていても驚くことではないから、女性たちが笑ったりお茶を飲んだりしながら働いている職場は、「普通の異例」の光景だ。深く茂った木々や庭に咲く花を観るのもこの場所の歴史とともに楽しみである。
 縫製はもう少しの向上を必要とするが、手仕事はため息のでるような根気仕事が美しく仕上がっている。難を言えば、手仕事は時間のかかる分、雨期の洪水、サイクロンなど自然災害の影響も受けやすく、納期があってなきがごとき、という現実である。こちらの時間をやりくりして注文を早く済ませ、5ヶ月あるから大丈夫、と左団扇で構えていると、季節が過ぎた頃にやおら到着となるのだ。そのような長い期間になると、やれラマダンだ、お祭りだ、休日だと生産能力が落ちる行事に加え、郵便局の配送がその遅さに拍車(?)をかけるから、海を越えて待つ身の私は、みるみるほおがこけてくる、という構図だ。バングラデシュと取り引きするということは、この現実を受けていくことにほかならない。
 クムディニは新しく身障者のための仕事場を作ったそうだ。稼がなければならないので、エリートのサハ部長は私にも圧力をかけてくる。だが、現状のいくばくかを体験している私は、協力したい、と思うのだ。サクラ・モヒラは村を抱え持つが、クムディニを通してできる仕事もまた大きな実を結ぶからだ。

 そのような苦い経験を繰りかえしながらも、少しずつ、相手もこちらも、互いの要求が的確につかめるようになってきている。
 夏に向けて出来てくる製品の一部を紹介しよう。(6月初めに到着予定)
 シルクと綿の混紡のブラウス・スカート。ブロックプリントの草木染。手織綿の部屋着(藍)。刺繍入りの普段着のスカート(手織り綿)など。布からこちらの注文で作ってもらいました。手織綿は夏にとても気持ちのよい素材なので、ご期待ください。ガンジーがイギリスからインドを独立させる時に「インド人よ、インドの風土に合った手織の綿を着よう」と主張して、産業革命の機械製品を遠ざけたという手織の綿は柔らかくて、風合いもやさしい。この話とともに、好きな素材になった。

 展示会をとおしてある染色工房の方から問い合わせをいただいた。彼の注文に沿う物を捜そうと、自然素材を扱う工房に手がかりを見つけることができた。バングラデシュの伝統的な職人技が消えてゆくのを憂えて、伝統の工芸を復活させている女性がいて、昔ながらの草木染や織物などを研究し、製品にしている。品質も少しずつ向上しているので、おいおいその自然素材も増やしていきたいと思っている。今回、工房を訪ね、当人のルビ・グズナビ所長から見せていただいたのは、ジャムダニ・シルクと言って一本、一本の糸を織りながら透かし模様を作っていくシルクの素材だが、それは自国に資料が絶えていたため、英国のヴィクトリア・アルバータ美術館所蔵の関係する資料の絵から再生させたものだそうだ。色もしぶい黄金色で、ジャムダニのモチーフが素朴に美しく、これらが英国のテキスタイルに影響を及ぼしてきたのだ、とその歴史も興味深かった。この工房からは草木染のオーガニックコットン、自然素材などが入るようになるので、お楽しみに。

 

サイクロン・寄付の領収書

 上の写真は浅野博之さんが弟たちと呼んで、学費を提供してくださっている学生たち2人とハク夫妻である。4人の嬉しそうな顔をご覧下されば、説明の必要はないだろう。アルバイトを減らして勉強が続けられるようになった二人は、少しふくよかになり、見た目にも感じがよい。成績も申し分ない結果だった。毎日7時から11時まで勉強するそうだ。私のダッカ滞在中に2回会いにきてくれた。一回目は、ナラヤンプール村出身のダッカ大学にいる友人を連れて、2回目は私の帰国の日に浅野さん宛ての手紙も持って。ポケットに大切そうに浅野さんの写真入りの手紙を入れていた。二人ともホッサン君だが、7人、8人の兄弟姉妹がいるそうだ。毎月、バスでナラヤンプール村に帰省し、その時アンワー・ホッサンから手渡しでお金を受け取るということである。バスだと片道6時間の旅だ。

 バングラデシュの経済はいいそうだ。確かにダッカに行くたびに新しい店やレストランが開店し、車の数は増え、活気のあるメガシティに発展している。そろそろ世界の最貧国の汚名を返上する時期にきているということだ。
 ダッカから荷物を日本に送るために家の近くの郵便局に行ったら、機械が故障してEMSは取り扱わないということだ。長い客の列の中で、機械を扱う仕事の人たちは自分の仕事がないので、客と目をあわさないようにしてひたすら座っていた。もうひとつの近くの郵便局に行ったら、ここは暴動が起こりそうなほど満員で人が建物からあふれ出ている。だが係の局員は一人で、手書きで外国宛ての郵便物の対処をしている。いつまでも順番が来ない状況に、堪忍袋の紐が切れてしまった客が怒り始めた。すると局員は仕事の手を止めて、それに応じ始めた。他の客は「仕事を続けろ!」とあちこちで怒鳴る。暴動が起きて、日本の新聞に私の死亡記事が載るのではないか、と恐れたほどだ。たかがEMSで送る手続きに3時間以上を費やして、オートリクシャで帰ろうとしたら、運賃をふっかけられたり、乗車拒否にあったりで交通の手段がない。付き添ってきてくれたハク家の手伝い人マレク君がバスに乗ろう、と提案した。初めて乗る市街バスで、ミニバスより少し大きめだ。乗っていたら、ボディがはずれて、人がバンバンたたいてはめ直した。よく見るとボディはほんとにでこぼこだ。座席もほんとにぼろぼろだ。無料なのかと思ったら、マレク君は郵便局で必要なのりを買いに行き、そのおつりで2人分のバス料金を賄ったのだ。動いているバスから乗り降りするのだ。帰宅して報告したら、ハク夫人にさんざん叱られてしまった。バスにはランクがあり、私たちが乗ったグラミンバスは最低ランクで「悪い人たち」の交通手段だということだ。彼女は市街バスには乗ったことがなく、マレク君たちは病気になると、働けないから「バス」で実家に帰るのだ。

 サイクロン「シドル」のその後は、胸に堪える。被災者たちはとりあえず生活を復興させたものの、被災地では10歳過ぎたばかりの女の子が結婚させられて、親孝行をしているそうだ。だが、それに対して、地元の男性が、「教育を受けさせよう」とボランティアで教育を始めたという新聞記事もあった。
 ダッカのスラムの住人が自らの毎日が被災者状態の生活であるにもかかわらず、皆で協力して、トラック1台分の食料と衣料品をブラックという地元のNGOを通して、被災地に贈ったという新聞記事が大きく載っていた。ひところは、中間の役得者が救援物資を懐にいれると、マスコミがこぞってあばき出したものだが、バングラデシュ市民の中から正義も生じているようだ。日本の人たちが騒ぎ立てるほど、バングラデシュの人たちは不正、不正と鬼の首でも取ったように狭く捉えておらず、事実に対処するべくさまざまな行動をしているようだ。右上の写真は1月訪問の際にサイクロン被災者に寄付をした時の領収書である。都市の銀行などに専用窓口が設けられていて、市民がそれぞれに寄付をしていた。日本からの大口寄付の私は、ロビーの人から笑顔の「さようなら」を頂戴してドアをでた。

 日本の途上国経験ある人たちが、ご親切から私に「騙されるな」という注意をくださったが、私は自分の村の人たちやダッカの人たちとの8年の交流の中で、日本に流布する途上国に関する話は、少し違うのではないかと思い始めている。省みると、騙されまいとして、日本の基準で裁きすぎたのではないか、と感じることが多々である。へたにりこうぶらずに、だまされてもいい、と開き直って、あたりまえの信頼関係で行動した方がむしろ人間の関係がうまく運び、よい結果を生みやすい、というのが私の実感である。

 

ナラヤンプール村の人々とサクラ・モヒラ・トレイディングにご支援をくださり、感謝申しあげます。

通信の過去の号は、http://www.sakuramohila.com/about/report.htmlでお読みいただくことができます。プリントでご希望の方はお知らせください。

渡辺隆夫先生のオフィス空間の半分を5月から間借りさせていただくことになりました。
いつもサクラ・モヒラが展示会でお借りするCafe Gallery SHINE の二階です。与野西口駅前ですので、是非お立ち寄りください。(tel:048-833-1045)

 
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