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No 2. 2004年 3月
 

 ナラヤンプールの小学校から出発前の2月にニュースがあった。3名がマークシート方式のテストに合格し、政府の奨学生となって進学できることになった、というのだ。村の人々があまりにも盛大に歓迎してくれるので、常は連絡なしに出かけていって、普通の村の風景の中に入って行くのだが、今年は連絡を入れてもらうことにした。その子どもたちに会いたい、と思ったからだ。

その他に、今年は妹の小木節子が初めて同行することになり、なにかおみやげを持っていきたい、と言っていたので、あれこれ考えた末に校庭に果物の樹を植えることにした。

こうして夏の始まりかけたダッカへ、今年は2人の旅である。


 果物の樹を贈ろう、と思いついた時、私はすぐに村の貧困層に属するサクラ・モヒラ・ショミティの女性たちのことを思い浮かべた。彼女たちに果実の樹の世話をしてもらい、マーケットで果実を売ってその利益の、例えば10%を村の学校のために使う、という案はどうだろうか。「すごい発想!」と有頂天になって現地の世話人ハク氏に相談したら、にべもなく、「子どもたちに食べさせてやれ」と言われてしまった。それもそうか。果樹を植える土地、女性たちをまとめるリーダーのことを考えたら、それが妥当な答えだろう。それに加えて子どもたちもおいしい果物の恩恵に与っていないのだから、これはまさに知ったかぶりの浅はかな発想だったと多いに反省することになった。

 果樹はダッカの園芸店で買った。バングラデェシュで生まれ、今や巨大なNGOグループに成長したBRACKが経営するAarong デパートの系列の園芸店である。田舎に行くのになぜダッカから果樹を買うのか、と疑問に思い訊ねたら、田舎には改良種がなくおいしい果実をつける樹がないということだ。声をかけたら7人が一口1000円で参加することになり、その合計金額にサクラ・モヒラ・トレイディングが補足して12本の果樹、成長するまで牛や山羊に芽を食べられないように保護するためのレンガ、元肥を買った。樹を植えるためのもろもろの労働は村の人たち、そして日々の世話は小学校の先生たちと村の人たち全員。これを村の教育責任者ホッサンさんの前で、ハク氏に英語とベンガル語で書いてもらうことにした。出資した人たちの名前も全員列挙してもらった。これは、村の人たちとの共有性を強調するためと、書く、という習慣を村に導入したかったからだ。ハク氏もこちらの意向を汲んで、何度も繰り返し村人に説明したあとで、おもむろに特製万年筆で書いていた。
 買った果樹は、マンゴウ、パパイア、グァヴァ、ソフェダ、レモン、ライチ、ベルフルーツなどである。2本はおまけしてもらった。ところで、初め校庭には7本植えることが可能だとハク氏は言っていた。そして村人は数日前に校庭に7本の穴を掘り元肥を入れて待機していたのだ。余分はついつい大きくなってしまうハク氏の夢の分である。果樹は1本800円前後、7本分の果樹とレンガと元肥は日本からのおみやげとしてけじめをつけ、ハク氏の夢の代金は彼が負担することになった。それらの苗木は彼のおじいさん側の親戚、ホッサンさんが村に提供するモスクの庭に植えて管理してもらうことになった。彼も奥さんも笑って夢の代金を支払った。

 今年はサクラ・モヒラ・トレイディングが経費の全額負担をすることができたことから、皆の心にゆとりがあった。今までは現地の経費を負担していたハク氏も、今年は「子どもたちにチョコレートをお土産に持って行こう」と提案した。誰も反対しない。渋い顔もしない。皆、そうしたいのだ。出て行く経費にひやひやしながら村にかかわってきた過去を思えば、ビジネスと結び付けることで、このようなボランティアの活動が本来持ちあわせるべき心のゆとりを取り戻したことは、活動を無理なく継続・発展させる大切な要素ではないだろうか。

 村に向かう道路が快適な高速道路になった。昨年はまだ工事中だった道路が完成し、ダッカの渋滞を抜け出た後は順調にすいすいと進むはずだった。ところが、途中で交通事故が発生し、突然巨大な駐車場と化した新品の道路で、ほこりと排気ガスを吸いながらエアコンディションの効かない車中で延々一時間を待たされるはめになった。事故の処理のあまりの遅さに、事故当時者への同情も忘れて、暑さと疲れでいらいらしてきた。隣り合わせたミニバスで、日本人が電話をしていた。「私のスケジュールが……」ひがむわけではないけれど、こちらは運転手を含めて7人、あちらは同じサイズのミニバスに運転手と2人、電話付きで仕事仕様のバスである。悪いことにはコミラという大きな街を過ぎてから、ナラヤンプールに向かう地方の道は崩れ放題で修理もされないので、でこぼこは日ごとに、しかも車が通るたびにアスファルトが崩れて、徐行運転で穴ぼこを避ける努力をしているにもかかわらず、動くたびに頭や肩や顔を車の壁面に打ちつけ、ようやくたどり着いた時には皆、痣と打撲と振動で疲れ果て、元気をしぼりださなければならないありさまだった。8時に出発して昼過ぎには着く予定だったのに、6時間以上を交通に費やし、その間待ちくたびれた子どもたちは帰宅、サクラ・モヒラ・ショミティの女性たちも一旦は集まったものの、解散していた。
 帰りは日のあるうちに出発しないと、あのでこぼこ道路は危険である。つまり、村で過ごす時間は2時間くらいしか取れないということ。サクラ・モヒラ・ショミティの女性たちは今回、小さなビジネスを始める時期にあり、是非とも話合いの時間を取る必要があったので、学校で子どもたちと遊ぶどころか、用事を済ませて早々に退散せざるをえなかった。急かせられて、校庭を後にしながらオカリナを、お土産に持ってきたことを思い出した。オカリナを奏し、自ら焼く方に秋から頼んでおいたものである。そそくさと先生に吹き方を教え、好きな人がいつでも吹けるように管理してほしいと頼んできた。吹き方を教えている時、村の若者たちが興味を示し吹きたいと言ったので、ホッサンさんに頼んで子どもたちばかりではなく、村の人たちが好きな時に練習できるようにしてほしい、と3回も繰り返し頼み、ついでにそれもハク氏に書いてもらった。(マッタク、ウルサイ ニホンジン ノ オバチャン ダ)それにつけても、あちこちで皆、音楽を聴くことを楽しみにしていた。ハク家の台所のお手伝いの人たちやパーティーでも、へたな私のオカリナでも催促されて「さくら、さくら」などをよく吹いた。特に新しく来たお料理の女性は6歳の娘連れだったので、遊びながら台所で日本の童謡を吹いた。残念なことに彼女は母親以外の人には決してしゃべらず、目を合わせることもしなかった。


教室の風景:英語の授業中に挨拶してくれる子どもたち

植樹の風景

奨学金を手にした2人

 前述の事情から、結局会うことができた奨学生は2人。すでに帰宅していた彼らをホッサンさんの家に呼び寄せてもらった。身体は小さいが13歳、14歳である。彼らはどのような家庭に暮らしているのだろうか。機会があったら訪ねてみたいものだ。女の子が身に着けている腕時計は村の子どもたちのあこがれの一つである。おじさん、お父さんなどが出稼ぎに行き、そのお土産は安価に買える腕時計が多いそうだ。
 ダッカ大学出身の英語、数学の教師は政府に所属するのんびりした教師よりは優秀だということである。昨年、隙を見つけては私を、「一生懸命働くから日本で仕事を見つけてほしい」とせっついていた英語の教師は、今年は「去年写した写真はどうしたか」と言っていた。学校の生徒たちの状況を訊ねているのに、自分の息子は2歳になった、とか自分は一生懸命働いている、とか、とんちんかんな答えばかり。数学の先生が、子どもたちに歯磨きの指導をする傍らでいろいろと答えてくれた。昨年この英語の教師は(親愛の情から?)、「これをあげる」と言って私に使いかけのボールペンを差し出したけれど、辞退したのは正解だった。「あなたの役目は学校のことを考えること。」こんなふうにきついことを言うのは私の仕事である。もっと情熱を持って学校の運営をしてほしい。
 そうは言っても、この数年の間に学校は学校らしくなった。本が入ったし、数学のそろばんのような道具も入ったし、壁に地図も貼ってあるし、何よりも教室のペンキが塗り直されて小奇麗になった。200冊くらい買えると聞いていた本は、ずらりと本が並んだ本のコレクションというよりは、これで200冊、と思わず数えてしまいたくなるくらい小さく立派な(村では、という意味)本箱に収まっていた。またもや、本は本でも日本の本とは違うのだ。約400人の子どもたちと5人の教師。午前、午後の二部制で3教室、学校には来ない子どももいて、なんとか教室にちょうどよく収まる規模で運営されている。
 今後の課題は学校に来ない子がいないようにすること、理科の教材を揃えること、本を増やすこと。なんとか工夫して、本が自由に読めるようにすること。教室に電線が電球をつけるばかりに垂れ下がっているけれど、村で電気代が払えるようになった時、「もう大丈夫です」と、独立していく時なのだろうか。斉藤和子先生がまもなく退職を迎えられ、資金援助は難しくなると言って、教師を雇う資金を3年分おいていってくださったそうである。政府の援助は3人の教師の給料だけで、あとは村人の懐から運営費が出ているのだから、村の生活が豊かにならずしてどうやって教師を雇い続けることができるのだろうか。国の状況が変化し、少々ゆとりのできた政府が面倒をみてくれる日が近いのだろうか。

 今年植えた果樹の実を楽しむことができるのは誰だろうか。10年、15年先の子どもたちだろうか。南国の樹の成長は早いから4年経てば少し実るが、400人全員が果物を食べるのはまだ無理だろう。だが、年ごとに木陰を作り、地盤を固めて学校をもっと学校のようにしてくれることだろう。世の中が早い速度で変化し、農村部にも携帯電話が広がっているそうである。正しくは、グラミン・フォーンというこれも国内の大きなNGO系列の組織が農村の女性にレンタル携帯電話ビジネスを奨励して、農村の開発を促しているようだ。電話は贅沢品の一つだけれど、国の内外に夫たちを出稼ぎに出している村の女性たちには贅沢を越えてありがたい世の中の動きに違いない。世の中の動きと言えば、どこまでも見通しだった学校の敷地に隣接して、倉庫のような建物ができて、視界を遮っていた。悪いことに校庭の半分近くを水溜まりが占めていた。校庭はこんなに小さかっただろうか、と4回目にして初めて思った。倉庫のような建物は何かと訊ねても、ハク氏もホッサンさんもあまり快く思っていないらしく顔をしかめて、それが答えの代わりになった。

 

村長さんの家の庭に集うショミティの女性たち

 村長さんの家の庭に26名の女性たちが集まっていた。2時頃、一度集まって、私たちの到着が遅れたために再度集まってきたのだが、一人は途中で用事があって抜け、もう一人は都合がつかずに欠席となった。この時すでに4時を過ぎて、同行したハク夫人や彼の妹さんは帰りの時間を気にして、私にも早く切り上げるように彼を促してほしいと頼むが、ハク氏は時間を心に留めながらもそれを優先的に考えることはしない。はるばるやって来たからには、先ずはこれから始まるプロジェクトの内容を、何度でもまた説明して、納得してもらうことが優先事項である。彼女たちは有利にお金を借りたとしても、借りたからには返済しなければならない、ということをよくよく説明しなければならない。そしてそのお金は自分のために借りるのだ、と分りきったようなことを、再三言い聞かせることをはしょりはしない。時間がどんどん経過するが、効率の問題ではない。
 前日に世話役の村長さんの奥さんからハク氏に電話があった。返済の集金を有料の仕事にしなければその荷を負う女性がいない、という内容だった。こんな時ハク氏は爆発する。「一体誰のために日本から好き好んでやってきているのか!恥を知れ!」とまあ、こんな内容なのだろうか。彼が話す英語から察して、このような内容のことをベンガル語で言っているに違いない。なにしろ巨体の大声で怒鳴る上、何度も繰り返すから誰だって怖気づく。彼女にしてみれば、その上に、遥かに上の身分の人に言うわけだから、考えて、考えて、躊躇しているうちに、私たちが行く前日のぎりぎりの電話となったのだろう。前年の9月に、半年の積み立ての満期が来て、計画通りに運んでいれば女性たちはすでに牛を飼って自分のビジネスに着手しているはずであった。積み立ては毎週10タカ、20円相当くらいをしていたので保証金は充分あったのだが、返済計画が甘いということで、その時にはローンを始めなかったといういきさつがあった。そのまま定期預金にしておいた元金が9%の利息で増えて、3月末に満期を迎え、4月には待ったなしで、実行する予定である。
 会合は女性たち一人一人に計画を聞くことから始まった。初めは目を合わせることもなく、問われても日本人のようにはにかんで後ろに隠れていた女性たちも、現状やプロジェクトの詳細に及ぶと、思わず大声になり、必死に訴えるので、喧嘩をしているような雰囲気である。村長さんの奥さんが集金ノートを見せてくださった。びっしりと几帳面に記録されていた。字が書けるのは彼女だけである。他の女性たちも識字の学習をしたはずなのに、結局はせいぜい自分の名前程度を書けるようになり、それ以上は進展しなかったようだ。生活に追われて時間を取る事がなかなかできないという現状があるようだ。

 3人を除いて、皆、牛を飼いたいらしい。一番、手っ取り早く現金収入に結びつくようだ。1年半くらいの牛だと値段もほどほどの上、程なく子牛を取り、絞りたてミルクをうることができる。あと一人は鶏を飼う人。2人は欠席。話を聞くうちに、本当に大丈夫だろうか、という気持ちになった。彼女たちは牛を飼うとか鶏を飼うとか以外に方法を知らない人たちだ。話を聞きながら、サクラ・モヒラ・トレイディングで彼女たちの手仕事をデザインに取り入れ……と計画していた自分たちの理解の乏しさを実感せざるをえなかった。まずは資金の援助をして、ある程度の生活を維持できる状態にしてからでないと、仕事につながる綺麗な手仕事は無理である。万が一の場合を考えて、段階的に3分の一の人たちが第一スタートをする運びとなる。ホッサンさんをダッカに呼び寄せて、お金を渡すということになりそうだ。それならこちらも安心できる。先に説明したでこぼこ道、利益を受ける側が汗を流す、という観点から考えて、ハク氏が村に向かうよりホッサンさんと村長さんがバスを乗り継いでダッカに来て資金を手にし、村の運営の一環として責任を持ってやってほしいからだ。初めの一年は、返済の集金をする世話人の女性に月1000円くらいの給料を払うことにした。世話人の女性が勇気を奮い起こしてダッカに電話を入れた時点でそれも立派なビジネスであろう、と認めることができる。翌年からは彼女の給料は仲間の負担で支払われることになる。巷で借金をした場合、利子は40%前後、グラミン銀行から借りた場合30%弱、SRIDから昨年交通費として支給された金額はバングラデェシュの9%の利息がついて少し増え無利子を原則に貸し出されることになるが、1年目の責任者の報酬はこちらから援助した後、2年目からは彼女たちの負担である。それでもよいか、とハク氏が念を押したら、それでも借りたいと、その答えだけは一致して明快だった。他に選択がないからだが、ほんとにその意味を理解しているのだろうか。ハク夫人が心配して、「半分くらいは食べ物に消えてしまうのではないか」と言っていたが、その件に関しても自分の将来の生活設計のためであると、お金を渡す段階で明記してほしいと頼んできた。牛を買うまでは、リーダー、および村の責任者が面倒を見てほしい、と思うのは自立を阻むことだろうか。段階的に始めるのだから、その都度状況にしたがって正しい選択ができるように助言だけは与えてほしい、とハク氏に頼んだら、応えは「もちろん」だった。

 ここで生活設計とは離れて新たに社会的な問題が浮上した。一人の女性が涙ながらに訴え始めたことの内容は次の通りである。「私の長男は精神病に罹っている。次男は悪事を働いて刑務所にいる。孫を7人かかえ、私にどうやって返済できるのか」もう一人は本人がもはや正気の人ではない。

 ここでもまた急かされて帰ることになった。すでに6時をまわっており、夜道は道路事情が危険である。竹の林を通りぬけて車道に出る時、サリーを着替えたショミティの女性が竹の陰で待っていてくれた。話をするのでもなく、笑いかけるでもない。それでも潜むように竹の陰に立つ彼女たちは、明らかに私たちを見送りに出てくれたのだ。

 二年経てば確実に成功し、経済的に独立できる女性がサクラ・モヒラ・ショミティから育つだろう。そして次の世代に資金が循環していくことを祈っている。ハク氏の教えるアジア・パシフィック大学の教務部長さんと話をする機会があった。そこには起業家を育成する学部があり、彼も自ら実践しているそうである。兄弟でビジネスを起こし、利益の20%を彼ら兄弟が受け取るけれど残りの80%は出身の村に渡るようにしているということだ。教授たちの中にはビジネスを通して村に収益をもたらす道を模索する動きがあるようだ。国内のそのような動きは上層部の人たちにゆとりが生じたということだろうか。ハク氏のまわりに集う人たちで孤児院や貧困者対象の学校を自費で運営している人たちもいるが、ビジネスを起こして経済的自立を促すことは、未熟練労働者がありあまる社会の現状では不可欠のように思われる。

 都会で車の間を縫うようにばらのたばこやクッキーを売り歩く子はいっぱしの大人の顔をしている。バザールで野菜にたえず水をかけて鮮度を保とうとする女の子ももはや主婦の様相である。実際の年齢は何歳なのだろうか。それに較べて田舎の子は子どもの顔である。田舎の方が豊かなのか、と思うが、なぜか農村から都会に出て未熟練労働者となる。
 ある夜、ハク氏の家にダッカに住む彼の出身の村の人たちが20人ほど集まって、夕食会を兼ねた「村おこし」の会らしき集会があった。皆、一応の成功者であり、中に女性が一人混じっていた。政府の高官であり、教育に携わっているそうである。遊びにくるようにと誘ってくださったが、今回は時間がとれなかった。

 

 Badshaの工房はBushandhara と呼ばれる下町にある。彼はGulshanという高級住宅街のテイラーで働いていたが、今年独立して下町に店を出した。Gulshanから車で10分以内の距離である。彼の家は、両親、4人兄弟が住み、この工房から5分くらいの距離に位置するそうだ。
Bushandhara の新興地は目下開発途上で、インターナショナル・スクールや専門学校、病院などの建設が進んでいるほかアジアで一番大きなショッピングモールが来年完成するそうである。そちらは彼の工房とは違い、広い道幅の計画都市地域である。
 ここは縫製工場が寄せ集まった地域である。朝の通勤時間帯には男も女もお弁当箱の缶をさげて、隙間も無いくらいにひしめき合って工場に向かって歩く光景が展開する。お弁当の中身はたいてい豆のカレーとご飯だということだ。工員さんたちは中流家庭よりもやや貧困に近い家庭の人たちだと説明してもらった。

 Badshaの工房は店を曲がりこんだ同じ階にあって、8畳くらいの場所に天井からの扇風機を備え付け、ミシンを並べて、8人くらいの男性が働いている。ここでは私たちは耐えられないだろうと考えてか、それとも男性の職場に女性はまずいだろうと考えてか、ミシンを一台、エアコンのついた店に持ち込んで、彼の右腕の縫製職人モハシンと作業をすることになった。田舎で仕立て屋をしていた彼のお兄さんもなんとなく加わっていた。Badshaは30歳にして家族と従業員の生活の責任を担っているのだ。

 若い年齢にもかかわらず、長年の仕立て屋のキャリアがあるのでこちらの要求に応えて裁断し縫ってはくれるけれど、使っているミシン、アイロン、芯地は言わずもがな、技術でさえも日本ではもはや過去の産物と化したものばかりである。足踏みかと思ったミシンは韓国製で電動だった。アイロンも汚れているからと日本からアイロンの汚れ取りをお土産にしたら、汚さを恥じて韓国製のプロ用のヴァキューム式アイロンに買い換えた。私たち二人はそのような環境に通い詰め工程の初めから作業を共にして彼らと共に3着作った。立体的な洋服が当たり前という日本のスタイルで、もっとたくさん作ってもらいたかったし、相手もその心つもりであったが、もうひとつ優先的にこなさなければならない仕事を抱えていたので、これでぎりぎりだった。布を買い足すにも、月日の経過が数ヶ月だったり、数量が多かったりすると同一質で間に合わせることができなくなるし、ドライクリーニングも予定していた時間にできない、ということがあり開発国の仕事は時間やその他の条件を考慮して進めなければならないことを私たちも学習した。日本では何も特別ではない私たちのような者の技術ではあるがそれでもこの小さな店の気概に満ちた経営者に導入できたことは、それなりによかったのではないか、と思っている。さてこの半世紀前に見たような古い型の器械を備える工房に、Badsha は4月にコンピュターを導入したいと言っている。自信家で、野心家で、勤勉な彼は、随分大きな失敗をしたが、それをものともせず、日本上陸のチャンスを掴みたくて必死である。しかし、彼のその失敗に慎重になり二の足を踏んでいるのはこちら側である。コンピュターの前に買い揃えなければならない物がたくさんあるようにも思うけれど、彼を見ていると「仕立て屋という低い身分から抜け出してやるぞ」という声なき声が聞こえてくるようだ。コンピュターは彼に革命をもたらす象徴のように見えるのかもしれない。物腰は丁重でお客さまを立ててはいるが、社会の中での身分にくやしい思いをかみしめていることだろう。しかしこちらだってコンピュターが入ったら、ただ婦人用1着と書いただけの請求書など許すものか。詳細に、納品期限までを管理して、製品はすべてチェックマークを要求し、途上国だからという理由は受け付けないからね!

 
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