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No 6. March 17 〜 30, 2006

住宅街に匂いたつ蘭の花

大きくなり始めたジャックフルーツ

朝食後から一日分の食事の準備をする
カジュルメ(家事手伝い)たち。

黒装束で、交通の取り締まりにあたる役人。
ラッシュが始まる前の道路だが、
ここはリクシャも スピードも制限されて、
道路の横断も可能になった。
 

8回目のダッカの訪問を終えて、成田空港から帰路のバスに乗り、桜に包まれた日本の風景の中に入って行く。このような桜の頃をもう何回経験しただろうか。
成田空港の工事現場でホースから水をかけながら建物を壊していた。ほこりが舞い立つのを防いでいるのだろう。反射的に、ダッカの町を桜の花霞のように被うほこりを思い出した。ダッカの経済はよいそうだ。なるほど、物乞いの人たちの数は減り、路上の小さな植え込みにねぐらを求める子どもたちも、私が通る道の周辺ではほとんど見ることがなくなった。古い建物が壊され、新しい建物が次々と建設されている。建設ラッシュの中で改善されていた街の空気はまたほこりの色に戻っているかのようだ。バングラデシュはもはや最貧国の汚名を返上し、途上国にのしあがったということだ。衣類や労働力の輸出が圧倒的な稼ぎ頭だが、近年農産物の輸出も増えてきたようだ。縫製向上や紡績工場では安直な建物に労働者を詰め込み放題に詰め込むので、火災があちこちで発生し、逃げ場を失った多くの人たちの命を奪っている。そんなことがあってもなくても、夜、縫製工場が集まる地域では、10時頃の夜道を家路に急ぐ女性労働者たちが歩道を川の流れのように埋めている。労働条件が問題になりながらも、それとは無関係に、彼女たちは長時間労働が当たり前のようである。

ほこりで重くなったように見える黄色い制服のチョッキをサリーの上から羽織って、女性清掃員が早朝の街で働き始めた。清掃公務員の出現である。ほこりの街にさらにほこりを舞い上げて路上を掃いている。さすがに、ごみは減り、街全体がなんとなくこぎれいになった。リクシャも制限され、車のスピードを制限する障害物が路上に置かれ、取り締まる強面の役人も黒装束で朝の街角を威圧している。犬の数も、自転車の数も増したようだ。時間とともに次第に人出も交通も激しくなった通りはごうごうと騒音がして、ダッカは大きなダイナミズムの中で渦を描きながら、少しずつ、少しずつ前進しているかのようだ。

村の道からでさえも発電設備を一つ、二つと見かけるようになった。バングラデシュは国を上げて発電能力を増やしたそうだ。だが、なにかの加減で機能せず、ダッカの目抜き通りでも、大使館の密集する地域でも、頻繁に停電があった。割り当てで、地域ごとに電気の制限をするそうだ。ダッカの一流の店でさえ、電気が止まり、真っ暗な中で汗を流しながら従業員たちは営業し、客は買い物をしていた。我がテイラーのバッシャ君の家に夕食のご招待で出かけたら、案の定そこは電気が多目に制限されていて、ろうそくは必需品になっていた。皆で汗をかきながらキャンドルライトでの交流会となった。
バッシャ君の店の大家さん、第5号で紹介したシャーカーさんと停電の薄暗がりの商店街でばったりと出会った。信じられないくらい変貌したシャーカーさんは、「脳溢血で1ヶ月も入院していた」と弱々しく微笑んだ。一回り小さくなって、別人のように見えた。彼が元気だった昨年の9月に、「日本人は長生きだが、バングラデシュ人は50歳で終わりだ」と言っていたことをふとこんな時に思い出した。川辺の船着場で、一袋10円くらいのピーナツを威勢良く値切りに値切って買って、私たちに「いっぱい食べろ!」と大判振る舞いをしてくれた彼の姿をまた見ることができるだろうか。一袋と言っても、7〜8cmくらいの大きさの紙袋で、ぎゅうぎゅう詰めてもせいぜい3〜4粒にすぎないのだが、それでも「相手のピーナツ売りの言い成りになって買ってはいけない。俺はビジネスマンだ」と言わんばかりに値切っていた。

 

歓迎のために外に出て整列した子どもたち

お菓子を待つ時。「行儀良くするように!」

今回はどんなことが起きるのだろうか。村を訪れる時、いつもどきどきとして、レインツリーが両脇に茂って空にアーチを作る村の車道の向こうに白い校舎が見え始めると、屋も盾もたまらず走りだしたくなる。私の気持ちを見透かすように、子どもたちが一斉に校庭に飛び出してくる。それがお決まりだった。今回は、車から直接村の世話係ホッサンさんの家に向かい休息を取っていたハク夫人が、学校にも足を向けることになり、足元の悪い村の道をすべてミニバスで行くようになった。それで、学校を素通りして先ずは、ホッサンさんの家の前の竹林まで直行である。ハク氏が体調を崩していらい、夫人がなにかと彼の役割を引き受けることが多くなった。こうして時を経て移り変わっていくのだろうか。
ひところに較べたら、道路状況は格段によくなった。6時間もかけてでこぼこ道をへとへとになって村にたどり着いていた頃を思えば、高速道路やスムーズに整えられた村の道を、3時間少々で着く今の状況は天国のようだ。その3時間の道中に、ホッサンさんが3回も、「今はどのあたりか」「村の人たちは総出でお菓子の箱詰めをしている」「子どもたちは首を長くして待っている」などと携帯電話に連絡を入れてきた。携帯電話が私たちの旅程に加わったのも始めてのことである。

村を訪問する数日前に、合計2万円くらいの献金を頂戴したので、それをなにに遣わせていただこうか、とハク夫妻に相談した。私は本とかそれに類するものしか考えていなかった。ハク氏も本を買おうと言った。夫人が即座に食べ物がいいと言った。「食べ物は食べてしまえばそれで終わりだ」「子どもたちはいつもお腹をすかせている」という類の内容をめぐって堂々巡りを繰り返し、結論がでないまま、村のホッサンさんの意見を聞いてみようということになった。
彼の答えは食べ物。それで、この金額に少し足して、食べ物を買わせていただくことになった。全部で350個。そのようないきさつで、村のお菓子詰めの話が携帯電話の連絡事項になったというわけだ。こんな情報が流れると、どこからともなくやってくる人数が増えるので少し多めに用意することになった。写真の折詰めをご覧ください。バナナと油で揚げてココナツミルクに漬け込んだお菓子、チーズのスナックです。学校の教室にうず高く積み上げられた食べ物の箱に子どもたちは授業など上の空だったに違いない。独立記念日の翌日、3月27日とあって、少しお祭り気分も味わえたかもしれない。

ところで、子どもたちはといえば、前もってキビシク言われていたらしく、行儀良く一人ずつ箱をもらい、ちらっとふたを開けて中身を何度も、何度も確認しながらも、その場で食べる子はいなかった。

昨年買ったハーモニアムを演奏できるようになった子どもが何人かいて、音楽会が開かれた。同じ時に買ったドラムもようやく届いていて、こどもたちは音楽の授業も楽しみにしているようだ。「ドラムがもう一組あれば、演奏も楽しめるのでもう一組欲しい」という要望があり、買うことにした。正直なところ、これほどの成果を見るとは想像さえもしていなかったので、ほんとに嬉しい。
 代表で演奏した子は、緊張して、ピカピカにめかし込んで、家族も見学にきていた。どこかの公務員が見学に来たのかと思ったら、少女のお父さんで、ハク氏はもちろん、だれにでも挨拶していた。お父さんもぴかぴかの一張羅で来ていたもんね!!

 「世界中のこどもたちが一度に笑ったら、空も笑うだろう…海も笑うだろう
  世界中の子どもたちが一度に歌ったら、空も歌うだろう…海も歌うだろう…♪」
               (「世界中のこどもたちが」:新沢としひこ作詞)
ナラヤンプール村の小学校の歌声はまさにこの歌詞を連想させます。皆様、一度、お出かけください。


国歌を演奏する音楽教師と少女

今年の奨学金を勝ち取った子どもたち
 

 No5の通信でお知らせしたように、女性たちは、牛、鶏、山羊を飼い、それぞれの必要に応じて3%という有利な条件でお金を借りられるので、資金の回収率も高く、運用は順調に推移している。お金を借りずに、ただ積立貯金を増やしている女性もいるようだ。密かにすりよって、ハク夫人にお金の無心をする人もいなくなったとか。識字の問題があるので、リーダーの女性がすべての記録を受け持っているが、昨年の秋から始まったミシンの裁縫プロジェクトと二つの面倒をみているので、サラリーの値上げをしてほしい、と要求された。「ショミティの資金の中から出してください」と私が言うと、「ショミティの女性たちはお金を借りられて喜んでいるが、私のサービス・チャージは払いたくないと言っている」という答えが返ってきた。「ハジヲシレ!!」とばかりに、「それではそのようなことをいう女性にはお金を貸さないでください」ときつい口調で言ってしまった。「私がこれだけの資金を稼ぐためにどんな苦労をしていると思っているのか!」ハク氏と夫人の目が思わず点になった。母と乳幼児の予防接種を同じ場所で施していた保健士と保健婦の目も点になった。
周辺の小さな町からハク夫妻に会うためにやってきた女性たちの目も一瞬点になったが、すぐに気を取り直して、また腹の底から声を出して、ああでもないこうでもないと尽きることなくショミティの行く末(多分)をしゃべり始めた。「ダイタイアナタタチハ、メンバーデモナイノニ、ナゼコノカイギノバショニイルノカ!」以前なら、このような時、ハク氏が何度も何度も彼女たちを諭しながら、適切に導いてくれたものだ。今は私がすべての決定をし、おしゃべりな女性たちをも制しなければならない。
 この女性たちは実は、小さな仕事に興味があるらしい。昨年の9月にミシンを4台買って指導者も雇い、女性たちの裁縫プロジェクトが始まったのだが、今回、彼女たちにサクラ・モヒラの製品をお買い上げいただいた時に入れて差し上げるパッケージ用の袋を縫ってもらうことにしたのだ。どのくらいの仕事ができるかは未知数だったけれど、お金を稼げるということに村の女性たちは浮き立っていて、サクラ・モヒラ・ショミティに急遽入会しようかという女性もいるありさまだ。ダッカに着いてすぐ、あらかじめの情報を得るためにホッサンさんに連絡を入れたら、ショミティの女性たちはどのくらいできるかはわからないけれど、先生なら縫えるだろうという返事だった。日本で考えた末、デザインを担当する小木節子がサリーで袋を作ることを思い立ち、サンプルを作って持ってきた。サリーの布自体で見せられるので、なかなかきれいである。サリーはダッカで求めたが、女性たちの着ているサリーよりは高級品できれいなので、少々抵抗を感じながらも、これは商品と割り切ることにしてもらった。
 さて、その裁縫の先生はといえば、日本の仕事ということで緊張しまくり、自信がなかったらしく、村でテイラーをしている息子を呼びよせていて、彼がさっさとミシンでこしらえてくれた。これなら、なんとかなりそうだ。50枚の袋だが、1ヶ月くらいのゆとりがあればできそうだということになった。
 話しているうちに、ホッサンさんの長女でナラヤンプール小学校で英語を担当するサブリナさんが、自らデザインして作った刺繍のショールをみせてくれた。村のたいていの女性たちは伝統的に手仕事ができるらしい。それで、サリーの袋が完了した後は、他の日本のグループから注文を頂戴した、刺繍入りトートバッグを作ってもらうことに話が進んでいる。
 「これは仕事です。粗雑な仕事があったら、二度と注文は来ないと思ってください。ショミティの仕事なので、先生が独占しないこと、リーダーはその仕事から自分の手数料がでるようなシステムにしてください」と言い残してきた。

 バッグが50枚できたら、だれかがダッカのハク家に運び、そこから郵送で日本に届くはずである。幸い、ホッサンさんは何かの用事で月に2回、ダッカに来るそうだ。5枚のサリーをご覧ください。これらのサリーから、サクラ・モヒラの包装用の袋ができてきます。次の販売会に間に合うといいのですけれど…

 そして、ショミティのリーダーの給料はといえば、従来どおり、私が援助することになった。裁縫プロジェクトとマイクロクレジットの二つの仕事として少し値上げをみとめることにした。そのうちに自分たちで運営できるように、という目標をかかげながら……

 

 今回、立ち上げから3年間続けてきたファッション・ギャラリーのバッシャ君のお店のトレイニングは止めにした。1月末の展示・販売会に向けて注文した品物がオーダー通りに届かなくなって、怒り心頭に達す、といったところで、バッシャ君のお父さんからメイルが入り、「長男バッシャが明日結婚します」と連絡を入れてきた。日本はもう12時をまわっていたから、当日の連絡だったと言えるかもしれない。とりあえず、電話を入れておめでとうと伝えたものの、その後の彼の仕事は「なってない!」の一言に尽きる。数日後、彼が注文を送れ、とメッセンジャーで言ってきたので、「もう送りません」と伝えた。キーボードをたたく指ががたがたと震えていた。その結論に達するまでにはああでもない、こうでもないと考えてかなり辛い、長い時を過ごした。だがバッシャ君も寝耳に水だったらしく、すぐに電話がかかってきた。「意見があったらメイルを入れておいてください」とつれない返事をしたら、3日後に「日本の仕事はいつもチャレンジがあって、夢がたくさんあった。今でも日本の人たちの服を作りたいと思っている」という彼の希望の返事が入っていた。お父さんに手伝ってもらって一生懸命書いたのだろうか。気合いの入ったメイルだった。それくらいなら、気合いを入れて仕事をしてくれたらよかったのに。どうやらまいあがってしまったらしい。
 ダッカに着いて、間違えそうもない従来のデザインは彼に任せることにして、私たちの次のテイラーにコンタクトを取り始めた。まだ、様子を見ている状態だが、熟練の年齢の職人さんを抱えるテイラーで、試しに作ってもらった服は合格点で、経験がある分、こちらの思うところを理解してくれる。それとともに、バングラデシュでは5本の指の中に入る大きな企業体になっている「クムディニ・ハンディクラフト」に手紙を書いてハク氏に持っていってもらい、担当者と話合いができることになった。なんとかは蛇におじず、というが、我ながら、よくぞできたものだ、と今になって冷や汗をかいているところだ。だが、向こうも初めてのことながら協力的で、サクラ・モヒラのデザインの服を制作してくれることになった。とりあえず、初めての服が制作中である。この企業は、身体障害者や貧困層の女性を組織して手仕事を与え、彼らの暮らしを援助するとともに、インターナショナルスクール、医学校等を経営し、社会に大きな貢献をしている(と、詳しくは後で知った)。ナラヤンガンジという、ダッカから1時間ほどの距離にある仕事場と本部は、17世紀にスコットランドの会社がジュートを輸入するために使っていた建物で、はからずもその当時の建物の中で、幹部の一族の人たちと昼食をともにできて、深い感動を覚えた。華美に飾ることをせず、質素だが感銘を与える何かを持ったひとたちである。町を取り囲むように大きな河がながれ、東インド会社の頃、交易が盛んだったという歴史の事実を垣間見たような気持ちになった。
 サクラ・モヒラが販売できる数は限られている。それで、当面、こちらのデザインをある程度の数は買い入れるが、残りは他のバイヤーに売ってもよい、という条件で進んでいく。アメリカやヨーロッパのバイヤーに売られるそうである。そのようなわけで、刺繍やアプリケなど、手仕事が加わった服の制作が可能になった。もちろん同じパターンでも、1枚、1枚全部違うものだ。

 バッシャ君は、結婚式の費用に私のお金を使ってしまった、と告白した。彼にはお金を前金で預け、そこから経費と仕立賃を差し引いてもらっていたのだが、彼の失敗続きの果てにこちらに必要な注文がだせず、結構お金が残っていたために、結婚の費用に変わったらしい。彼が失敗せずに従来のペースで維持していたら、返金という事態に至らず、その時々の経費を差し引いて、つつがなくお金を使い切っていたことだろう。だが、返金するように、と叱られて、できないという事態が生じてしまったのだ。新しい注文は返金が完了するまで送らない、と注文を欲しがるバッシャ君に言い渡して、バイバイと手を振った。失望の笑いを浮かべた新婚のバッシャ君は最後まで見送ってくれた。
 彼の名誉のために付け加えるが、彼は人柄の良い青年だ。毎回書くがむしろ頼りになるバッシャ親父と言っても過言ではない。長男として家族の生活を支えてきたのだから、日本の仕事ができて収入が増え、将来の見通しが立とうとしている時に結婚を考えたとしても、決して罰などあたるまい。皮肉なことに、日本の仕事をしている前途洋々たる夫としてアピールし、あせって結婚したバッシャ君は結婚のどさくさで日本の仕事を失った。ハク夫人は、奥さんがかわいそうです、と同情するが、同情してもらいたいのはこちらのほうだ。おまけに、確かに日本にはちがいないが、私たちの実力などは吹けば飛ぶようなほこりのような存在にすぎない。むしろ、日本というだけでそんなにも希望を託してしまう社会とはいったい何だろうか。借金までして挙行する結婚式とは一体何だろうか。村の女性たちも貧困層に属しながら結婚式にはお金が必要だという。そしてそのために借金するのだ。ダウリーと呼ばれる女性側の持参金は国の恥として違法であるようだが、依然として農村部には残っているらしい。そんな結婚とは一体何だろうか。バッシャ君だけに例外を求めることもできないだろう。彼には一言、きつい言葉で釘をさして、それ以上はだまることにした。トレイニングの甲斐合って、彼の作るシルクの上着はほんとにきれいになった。返金が完了したらそれをけじめに、また作ってもらいたいと願っている。

 

 ハク夫妻が、私たちの帰国1日前にインドに経ち、私たちはふたりに「いってらっしゃい」と言ってからその翌日、手伝いの人たちに見送られて彼らの家を出た。そんなに現地の生活に溶け込んでしまうなんて……いつのまにか過ぎていった時の経緯が不思議に思われる。
 ハク家の住み込みの手伝いの人たちは3人だ。12歳のミジャン君と19歳のマレク君がカジュルメとして家事全般を手伝う人、マルファさんという20歳の女性がバブルチといって料理をする人である。ミジャン君はお母さんがよその男と出て行き、マレク君のお母さんは離婚、マルファさんは10代の前半に結婚したものの何かの理由で出されたらしいのだが、本人は決してその事を言わないのだそうだ。私がベンガリ語の基本用語を勉強していたら彼女がそれを時間をかけて一生懸命読んでいる事実から察して、学校に行くチャンスもあまりなかったのかもしれない。皆、そのような若さで、他人の家に住み込み、ほぼ24時間働く体制の中にいる。親が結婚相手を決めて、女の子は呼び戻され、男の子はもっと収入になるような職場に移ることもあるし、奥さんと離れてまた働くということもあるようだ。皆、なにかしらの事情を抱えている。
 どこの家でも一人がやめて、次に住み込みに入ってくるのは、まだ子どもである。ご主人さまの留守のつかの間にテレビを見て、リラックスしてすごしている彼らはどこから見ても普通の子どもにすぎない。

 それぞれが、それぞれの人生をかかえながら、この地球を埋めていることがなんだか、とても、とても不思議な気がする。それにつけても、ハク氏に引っ張られる形で始まったこのサクラ・モヒラ・トレイディングも、何の因果か今は私が引っ張る形で進んでいかざるをえなくなった。
当初、日本側があまりにも、だまされた、とか、賄賂ばかり取る、とか、彼らは怠け者だという類の話ばかりをするものだから、私は何もわからないままその気になって、村のそのようなことに目を光らせてメモしていたら、ハク氏が雷を落とした。「そのようなどこかのジャーナリストが重箱の隅でも突っついて書くようなことをオマエも書いて、新聞にでも発表するのか。自分の感じたままを、自分の言葉で書いてみろ!」何度、どなられたことだろうか。

幸い、涙や怒りも交えながらにしても、こうしてプロジェクトの進展の報告ができることを嬉しく思う。

3年間が経過して、今も継続できていることに驚きを感じながら、皆様のご理解、ご協力に深く感謝します。いきづまっている時、どなたかが、どこかから手を差し伸べてくださいました。ほんとにありがとうございます。

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きれいな手仕事の小物やショール、スカーフがサクラ・モヒラの製品に加わることになりました。現地の女性たち、障害者の人たちが制作した物です。また。今回はトレイニングがなかった分、マーケットの探索ができ、地元のリネン、木綿の上質の素材を見つけ、製品として加えることにしました。6月末頃に第6回目の展示・販売会を予定していますので、楽しみにおまちください。また、サクラ・モヒラの製品の一部が量産可能になりましたので、委託販売なども考え始めています。どなたかお心あたりがある方はご一報くださるとありがたく存じます。

 
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