ナラヤンプール村の教育担当、ホッサンさんから電話があった。村に向かう道路で事故があり地元の人、5人が亡くなられたそうである。その道路は8月の大洪水で深くえぐられ、私たちが滞在中の後半も降りしきる雨の中で、閉鎖されているらしい。現地の世話人ハク氏は他のルートを使って決行することを頑固に主張していたが、結局、ホッサンさんがそのルートを使い2日がかりでダッカにやってくるという結論に落ち着いた。今回は大学生のいずみさんが私たちに遅れること一週間、初めての海外の旅をバングラデシュに決め、ダッカ、ナラヤンプール村を私たちと行動をともにすることになっていたので、ハク氏も是非連れて行きたいという思いが深かったのだ。けれども仕方がない。予約していたマイクロバスをキャンセルすることにした。
村の学校へのおみやげは何にしようかと考えていた時、ひょんなことから村の学校にオカリナを持って行けるようになった。楽器製作所の方が好意的な価格で提供してくださることになったのだ。昨年、これも別の方の好意で素焼きのオカリナを何丁かナラヤンプール村に運び、皆で使ってほしい、と教育担当のホッサンさんに頼んできていたのだが、今回はプラスチックのオカリナを144丁買うくらいの資金はやりくり可能だった。ハク氏に「本とオカリナとどちらがいいでしょうか」と問い合わせると、「もちろん、オカリナ。本は必要なものだけれど、オカリナが吹けるというのは現実を超えた特別のことで子どもたちのプライドに繋がるすばらしいことである」という返事だった。そのような経過があって、いずみさんにも手伝ってもらい一人48丁ずつの割り当てで運ぶことになった。プラスチックの144丁と素焼きの15丁を合わせ、160丁のオカリナがバングラデシュ初上陸である。小さなコンサートを校庭でしようと、いずみさんといくつかの曲を合奏で練習し、子どもたち用の練習曲のコピーも準備してあったのにちょっとがっかりだ。だが次の機会にまわすことにした。さらに別の有志の方からも村のために使ってほしいと寄付を頂戴したので、それで本を買わせていただくことにした。「やった!今回はオカリナと本の両方のおみやげができるぞ!」ハク氏に相談したら、50冊くらいは買えそうだ、という答えがあった。ダッカのニューマーケットというところでは本も卸価格で買えるということだ。今日は行こう、明日は行こうと言いながら、雨のために街のあちこちで水が溢れ外出がままならず、延び延びになって、結局はハク氏に本の選択を託して帰国することになった。
帰国の日、いずみさんがあまったお小遣いを村のためにと提供してくださった。私は本をもっと買うという発想しかなかったが、ハク夫人が、子どもたちにシャツを買ってやりたいがどうか、と言う。自分の思い込みばかり先行していたことに少々面食らいながら、現地の人ならまずは衣食住に思いを馳せるのが当然かもしれない、と反省することにもなった。オカリナだの、本だのと現実から遊離してハラの足しにもならぬ物ばかり考えるのも、村の人たちはどのように思って見ているのだろうか。ふと、ハク氏の出身の村から出てきた親子がある日いつの間にかハク家の台所のあたりにいて、2〜3日くらい家のどこかに泊まり、いつの間にかいなくなったことを思い出した。サリーなどをもらいに来たということだ。どこで寝て、どこで食べたのか、いつ来て、いつ帰ったのか。同じアパートメントの住人なら食事を伴にし、紹介し合うのに、大抵の場合村からやって来た親戚以外の人たちは紹介なしで、なんとなく顔を合わせなんとなくいなくなる。
村の人はどうやって着るものを調達しているのだろうか。片方ずつ違う靴をはいた子、はだかで腕時計をしている子、大人のミニスカートの服をくるぶしの長さで着ている子、綺麗なサリーを着ている子……石版で学ぶ子どもたちにオカリナか。でも、まあ、それもいいか、と自分を慰めてみるけれど、このような場所ではすべてが足りないのだ。サクラ・モヒラ・ショミティの女性たちの身奇麗なサリーはどうやって調達したのだろうか。皆、それぞれの裕福な知人や親戚を訪ねてはもらってきたのだろうか。この村で充分に足りているものはなんだろう。自然の豊かさ?ふるさとの香り?私が関った4年間の写真を見ていたら、最近の写真にはバックパックを持って学校に通う子が何人か写っていた。村の学校には電線の先に電球がまだないけれど、グラミンという今や巨大企業とも呼べるNGOが携帯電話を村の女性に貸して、そこで電話をかけるということもできるようになったそうだ。電気より携帯電話が先行する社会。この先、何がどのように変わっていくのだろうか。ホッサンさんには図書の貸し出し制度を作って、村の若者たちも本を読めるようにしてほしいとハク氏に頼んできた。それでは本がなくなるだけなので、登録制にしてメンバーシップのお金を少し払うようにするという案が出たが、肝心の本は自然の力に阻まれて、まだ用意できていない。
ホッサンさんの電話での報告によるとサクラ・モヒラ・ショミティの女性たちの数人が5月に牛、山羊を飼い始めまずまずの滑り出しだということだ。だが、8月の大洪水で飼っておく場所がないのでそれらの家畜をすでに売り払い決定的な損失は免れたようだ。ショミティはリーダーを決めて1年半の学習期間を経てスタートしたので、後は自分たちだけでなんとか運営できそうである。村ぐるみの活動であることが頼みである。
ホッサンさんからまた電話があった。延ばし、延ばしにしていたが、雨がひどく、結局は彼もダッカに出てくることができなかった。電話で、「何を準備したらいいのか」とハク氏に何度も訊いて来るそうだ。4年前に日本のSRIDという婦人会からの援助で教室を建てた時に、ハク氏に請求書、領収書の類の提出等で怒鳴られて、今度こそはしっかりやるぞと発奮して、そのお金の使い道を証明するための書類等を準備するために訊いているらしい。書類は彼と会うことができなかったので、受け取ることはできなかったけれど資金の使途と資金は整理してあり、電話で数字を訊くことができた。この資金は個人から出たもので当の本人は報告を受けることなど想像さえしていなかったのだが、彼がそのような意識を持ったということは、将来を考慮した時やはり一歩前進と言えるだろう。ハク夫妻も両者の間に立ってあまり怒鳴る材料がなくなった。それぞれが年月を重ねる中で少しずつ学習していった成果だろう。
ホッサンさんにサクラ・モヒラ・ショミティの女性たちが独立するための資金の残りを全額預けて、ハク氏の資金管理の責任はそれで終わりになる。彼は病気で、責任を持つことができなくなったのだ。だが、ここまで来てしまえば村の責任者にリードを任せてもなんとかなりそうだという予感がある。ここまで来るのに2年以上の月日が経過した。後は定期的に訪れて、プロジェクトが発展していくさまを楽しませてもらうことにしよう。
サクラ・モヒラ・ショミティの経緯を読んでいてくださる皆さん、どうぞ遊びに訪れてください。ナラヤンプール村が人間の交流する場所になったらどんなに嬉しいことでしょうか。このプロジェクトをスタートさせたハク氏、ホッサンさん、そして村の人たちも喜ぶことでしょう。 |