Sakura Mohilaとは?商品紹介展示販売会業務日誌お問い合わせ
Sakura Mohilaとは?
  歴史
  村の小学校
ショミティの女性達
  生産する人達
サクラモヒラ通信
 
-日本語-
 No 9
 No 8
 No 7
 No 6
 No 5
 No 4
 No 3
 No 2
-English-
 No 2
 No 1
   
 
No 13. May 22 〜 June 5、2009
 
 5月のバングラデシュは初めてである。これまでは外に仕事の場を持っていたので、夏休みを利用して、8月頃、3月頃に訪れていた。今年はサクラ・モヒラの活動が年明けから5月まで続いていて、今年からサクラ・モヒラの活動に専念することにしたにもかかわらず、5月に入ってやっとまとまった時間を取れることになった。バングラデシュで仕事の指示をだしてはきたけれど、彼らの「オーケイ」の返事とは裏腹に、絶対に、ちゃんとできないだろう、とこれまでの経験から懐疑的に受け止めながら、その予想が裏切られることをひたすら願っていた。「こんどこそは」と自分たちの労がきちんと労として成り立つことを願ってしまうのだ。果たしてその期待の果てに届いた荷物は見事に期待どおり(?)の失敗品であった。「失敗しなきゃ、バングラデシュじゃないよ!」ただし、イスラムさんの皮革製品は、こちらの注文どおりの物が納期どおりにきちんと発送されてくる。彼はバングラデシュじゃない。だまさない。よけいなお金は受け取らない。質のよい品物を作る。バングラデシュにうんざりしていた中で、彼のような人に出会うと、ほんとにほっとしてくるのだ。「イスラムさんは大好き!」と私は思うけれど、言われる相手は戸惑うことだろう。
  ともあれ、これまではモンスーンが始まって暑い時期に入る5月を「忌み嫌うがごとく」不快な季節と想像していたけれど、8月に始まるラマダンのかなり前、という条件を考慮すると、暑くても寒くても5月には現地での仕事の目途をつけておきたかった。
   5月のダッカ・・・実際に到着してみると、いつものように人のエネルギーがむんむんしていて、暑い、寒いに関係なく、すんなりと現実の環境に馴染んでしまった。故里に帰ったようにありのままを自然に受け止めている。おりしもジャックフルーツ、ライチ、マンゴウなどの果物の季節であり、見たこともないような果物を街角のお店に見つけては、目も舌も大いに楽しむことができた。
  3月には、時々通訳の仕事をお願いするダッカ大学のイモン君が、日本から奨学金をもらって短期の日本留学を果たした。2か月の間、北浦和の日本語研修センターに滞在したのだけれど、彼は日本のなにもかもが気に入って、深刻な「帰りたくない病」にかかっていた。帰国してからは、「また日本に行きたい」病におちいっているようだ。「日本のどこが気に入ったの?」とある方に聞かれて、彼はしばし答えにつまり、両腕を大きく開いて答えたのだ。「じぇーーんぶ!」彼の日本語は上達したでしょうか。
  ダッカ大学の日本語学科のアラム先生が我が家に4泊のホームステイをしたのは4月のことである。彼とは毎夜1時過ぎまで、いろいろな話をして、尽きることがなかった。彼も他のお家に泊めていただくよりは、バングラデシュの現状に関わる私と話ができたことで、深い話ができたことを喜んでいた。彼は、大学で教える傍らで、顧問として、ダッカ大学のそばに「新幹線日本語学校」を運営しているので、その学校を応援することにした。サクラ・モヒラのオフィスよりも小さな場所だったけれど、「日本人」との交流会を作ってもらい、学生さんたちとの時間を共有してきた。そのようないきさつから初めて校内にあるアラム先生の大学教師用の寮でお昼をご馳走になった。古いけれど広くて樹木に囲まれ、ビクトリア時代の英国を彷彿とさせる造りだった。エライ教授たちは、家賃の安い小さな寮のアパートメントを選び、地位の低い若い先生が広々とした高い家賃の場所を押し付けられるのだそうだ。(これは内緒の話かな???)
  もう一つのニュースはサクラ・モヒラのエイジェントができたことだ。エイジェントと言うと、かっこいい響きだけれど、取り次ぎと現地での雑用のすべてを引き受けてくれる先ができた。ルミさん、マヒンさんのマタン母娘さんである。買付、注文がこれで簡単になった、と言いたいけれど、まだサクラ・モヒラの経験がないので少しずつ仕事をお願いする、という当面の流れである。
 マタン母娘のオフィスに何度か訪ねて、その都度お料理好きなルミさんの手料理をご馳走になった。ルミさんの場所には2人のお手伝いがいるけれど、彼女は私たちに、「私の娘たちです」と紹介してくれた。つまり彼女は血を分けた娘さんが2人と田舎からお手伝いとして預かって教育している「娘」が2人いて、家庭と仕事を切り盛りしているのだ。彼女の場所では、時間はずれるにしても運転手も、家族と同じテーブルで食事をし、私たちに付いてくれている男の子ミジャン君も、私たちと同じ部屋のソファに案内され、同じ食事をいただいていた。使用人の身分の人たちに、人権のある人として対応するルミさんの姿勢は清々しい雰囲気を醸し出し、私たちも嬉しかったけれど、付き添いのミジャン君も由緒正しき扱いを受け、初めてのことに戸惑いながら、人間のプライドに目覚め、感動していた。彼は住み込みの手伝い人で、どのような用事にしろ、主人の用が済むまでは、その辺で時間をつぶすことが習わしになっていて、初めはぎこちなく応接室のソファに座っていたが、やがて自分の意見も言っていた。生き返った人のようにタクシーを拾いに行った姿が印象に深かった。
 ルミさんのご主人は、エアカーゴと竹製品の輸出をする会社を経営、近くに住む甥は機織の会社を経営していて、日本にも輸出している。会社の従業員はすべて親戚で固めている。そのわけは、親戚縁者ではないと、ごまかされたり、乗っ取られたりして、バングラデシュでは気が許せないのだそうだ。同じ理由かどうかは知るすべもないが、イスラムさんの皮工場も兄弟12人での経営である。

 ダッカのあちこちの場所を移動して、行く度にひどくなるのは交通渋滞である。日本の中古車が小奇麗に化粧直しをされて、ダッカの隙間を埋め尽くし、それほどの距離でもないマイルを行くのに、延々と時間がかかり、しかもいつ到着するのか、見通しさえも立たなくなって来ている。車の税、ガソリン代、お抱えの運転手の費用を考えると、バングラデシュの貨幣基準では気が遠くなりそうな維持費と品物であるにもかかわらず、公の交通手段が頼りにならない事情を抱えて、人々のあこがれと必要を満たしてくれる、日本からの中古車は増え続けるばかりだ。前にも書いたけれど、ダッカでは、混沌の中でブーンと音を立てて、エネルギーが渦巻いている、その音が聞こえてくるようだ。

 

 小学校の子どもたちに持っていくおみやげはミルクのたっぷり入ったビスケットをひとりに1パックずつ。持っていくというよりは、お金を渡して村で調達してもらうことにしている。なんとなく、ビスケット屋さんに会ってみたくなった。100人分、多めに買ってもらうことにしているし、年に何度かの行事だから、きっとお得意様だと思うけれど、まだ会ったことがない。どんな人だろうか。また子どもたちは、家に持ち帰ってどうやって食べるのだろうか?家族で分けて?子どもたちだけで?学校外の子どもたちは1パックのビスケットをどうするのだろうか?炎天下のレインツリーの道を時には1時間もかけて歩いてきて、どさくさまぎれにビスケットを受け取り、さっと人垣をすり抜けて行ってしまう男の子。見事な逃げ足の速さだ。帰りの道で食べて行くのだろうか?家族に持っていくのだろうか。
 大勢の中でやっと顔を覚えた子が、次の訪問の時に見えないと少し気になる。住み込みで、都会の家のお手伝いになったのだろうか。病気になったのだろうか。山羊の世話をしているのだろうか。ついそんな思いが心をよぎってしまうのだ。小さな子でも、少ない給料のほとんど全額を実家に仕送りしているようだ。
 幼児の労働が問題にはなるけれど、さてバングラデシュで幼児の労働を禁じた場合、その子どもたちはどうやって腹を満たすのだろうか。親には仕事がない、だから村の子どもが場合によっては自分よりも大きい子どもの面倒を見ることも含め、住み込みの家事の手伝いとして働き、親に仕送りをするのがお決まりのパターンだ。みんな、がんばってね!
 私の村の子どもたちは、音楽の時間を楽しんでいる。音楽の先生は土地に伝わる歌や踊りを教えている。音符がないから、伝承だが、ハーモニアムを弾く子が育っている。大きく口を開けて一生懸命歌う子どもたちを見るのは、いつも素朴な喜びである。
 今回もひとつ嬉しかったことは、絵が上手になったことだ。絵の教師をつけてから、しばらく型にはまった同じ絵ばかりを描かせられて、教師などつけたのは失敗だったかな、と案じていたら、ふっきれたように良い絵ができてきた。実はこの前の訪問で、世話係のアンワー・ホッサンに「絵の教師には不満を持っている」旨を伝え、同時に絵の教師に宮城まりこさんの「ねむの木」学園の画集を教室で手渡してきたのだ。それが効いたかどうかは知るよしもないが、とにかく、おもしろい絵がたくさんあった。絵葉書、便箋と毎年子どもたちの絵をきちんとした製品にしているけれど、今年は何にしようかな、と考えているところだ。

 
縫製プロジェクトの若い女性たち                   ショミティの女性たち

 このページは、書いては消し、消しては書いて、とても難儀した。学校とはちがい、仕事と支払いが絡むので、現実を引きずる部分だ。女性たちの仕事がよくできたと言っては喜び、とんでもないものができてきたと言っては、失望し・・・何度同じことを繰り返してきたのだろうか。しかもダッカがしっかりしてないね・・・しかし今回はこれ以上、書くのはよそう。今は心に鉛の重石を沈めて、やり過ごそう。村の人たちは校舎を建てる時、農作業の合間を縫って協力してくれたではないか・・・そんなことを思い出して、彼らを信じることにしよう。10年の間には社会が変化し、環境も変化する。初めと同じやり方で援助し続けることは怠慢としか思えない。大方の場合、援助する方はされる人より禁欲的に働いているのだ。「ドナーズ・ファティーグ」という言葉があるそうだ。

 新しいメンバーが加わったので、紹介いたしましょう。シーピーさん。スタートさせたハク氏の親戚筋の人で、彼女はこの場所で育ち、毎年二人の息子さんたちを伴ってアンワーの家を訪れる。彼女はダッカで学校を経営しているキャリアウーマンである。村の仕事の労を嫌ったハク夫人が呼び込んだのだが、彼女は思わぬ結果として私の強力な味方になった。  
いつか適切な言葉でこのページを埋め、変化の成り行きを読んでいただく時がくるだろう。今は何も言いたくないし、自分が正しいのかどうかさえもわからない。ただ手を染めた今となっては、正でも否でも、自分を信じて、未来にプロジェクトを運んでいくだけだ。

 縫製を頼むクムディニという福祉トラストから、夏の季節に間に合って服が届いた。アメリカの不況は、こと納期に関する限りはありがたい。アメリカの不況でバングラデシュからの輸出品が減り、夏物が冬を過ぎて届くというふざけた取引が今回は生じなかった。今回の訪問では縫製のずさんさにお灸をすえるつもりで、注文を減らしたら、それが功を奏したのか、許容範囲の製品が届いた。同時にこちらも地元に伝わる手芸を取り入れるデザインにするなど、失敗の体験から注文のコツを学んできたようだ。クムディニとはもう何年の取引になるだろう。そろそろ向こうの意向をくんで少し注文の数を増やしてあげなければならない。なんだかんだと文句を並べて、自分が企業並みの注文をしない、というのも相手の好意につけこんで「自助努力」が足りないようにも思われる。応援者が大きい態度で自分をいつも是とするのは、村の例と同様、肯定されるべきではないと思うけれど、どうしたらいいのだろうか。力を問われるところである。
 洋服の縫製に関しては、質はまだまだ中国人には劣るが、バングラデシュに伝わった手仕事に関して言えば、ほんとに美しい刺繍や草木染めのブロックプリントがあり、扱う者にとっては見ること、それが自分のデザインとして使われていることは大きな喜びである。 
 もう一人女性の優秀なテイラーが見つかった。彼女は英語が苦手なので、英語の通じるエイジェントをやっと見つけた。これでまぼろしと化していたシルクのジャケットが復活できる、と期待する。期待していいのだろうか。順調に運ぶと返って心配になるのが、バングラデシュ症候群かもしれない。ともあれ、自然素材はいいものが手に入るのだから、それを日本の人たちに利用していただきたい、と正直に考えている。

 皮製品のイスラムさんの工場からは一か月経つと連絡が入り、不良品のない製品が届く。イスラムさんも私ごときの力のない人を通してでも、日本にマーケットがほしい。それがわかるから、自分に力のないことがほんとにつらい限りだ。ま、精一杯のことをやるしかないだろう。
7月に届いたのは、牛皮のカバン、財布、名刺入れ、コインケースなどです。「sakura」と刻印が入っています。ほんとにイスラムさんは大好きな職人さんです(実は社長さんでもあるけれど)。美しいなめしの牛皮製品です。プレゼントなどにお使いくださいますよう。


ショルダー

型押しのトート

2つポケットのバッグ

コインパース

カード入れ
 

ダッカ大学の近くにある新幹線日本語学校で話をする機会がありました。集まった学生さんたちは日本の生活に興味深々でした。文化というよりは、生活の仕方に興味が集まりました。たとえば、どのような場所で買い物をするのか、価格は、乗り物は、など、皆、日本で生活をするための知識をほしがりました。バングラデシュの人たちと話をしていると、夢は自国を抜け出て外国で働くことのように思われます。目標はとにかく、外国、という感じです。
 バングラデシュに行く時はいつでもオカリナを持って行きます。当地にはまだ音符がありません。口伝えで音楽を覚えています。持ち運びのできるオカリナはどこに行っても喜ばれ、私の演奏がへたでもかまわず演奏してきます。まだかけだしの新幹線日本語学校で、アラム先生が買ってくださった「しんがり」を皆でほおばりながら、日本のことを語ったり、日本の歌を歌ったりしながら過ごした時間が楽しかったです。「しんがり」は小麦粉で練った皮の中に野菜のカレーが入っていて、それを揚げたもので、ハイティーによく食べています。
 今回、シーピーさんとご主人が、バングラデシュの織物、ジャムダニ織の村や綿の織り元に案内してくださいました。ジャムダニ織の村は、地面に穴を掘り、そこに座って一本ずつ織込むと、子どもたちが小さな指に細い針を持って模様を編みこんでいきます。織物に使っている錘は石ころだったり、コカコーラの空き缶だったり・・・美しいものを織りなす舞台裏は粗末で華美な飾りはなにもありません。暑い季節、子どもたちも大人も半身裸でトタンの工房で働いていました。織場の家で、ココナツの水を出してくださいました。正直、躊躇したのですが、「エイヤ!」とばかりにおいしそうな顔を演技して飲み干しました。案外、お腹は大丈夫でした。織場の人たちのご好意を受け取って正解だったかな?
 ジャムダニ織はカーテンを作ろうと思っています。途方もない時間をかけて作りだされるシルクと、そこに流れる時間の速度と、現代にありながらさながら17世紀のような村の印象は、ほんとに(勝手かもしれないけれど)エレガントだと思いました。このような時こそが途上国を旅する醍醐味であるように感じています。
 綿の織場にもほぼ同じ環境がありました。手機織の綿はバングラデシュでは日常のものなので、少し多くの動きがありました。サリーの織りをデザインする織職人のお兄さんが竹の棒に腰をかけ、一日働いていました。慣れた手の信じられない速度で糸を引きながら織っていました。彼は学校にほとんど行っていないけれど、織物の天才で、さまざまなデザインの織り模様を考え出して作ることができるそうです。
 このような場所を訪れながら、お金はなくてもあまり値切って買うのはいやだと思いました。自分で作業をする人なら、物を作る時間の大切さがわかることでしょう。
 先進国のビジネスの人たちはタカピシャに値切りたおしていくそうです。しかも、もっと早く作れ、と拍車をかけるそうです。
10年にして、いろいろな人たちと親交ができ、いろいろな人たちのお家に招いていただき、お茶や昼ごはんや、ディナーを御馳走になりました。あまりにも現地に溶け込んで問題意識も無くなってしまったかのようです。

ナラヤンプール村の子どもたちはまだ電気がありません。コンピュターのこの現代に・・・と思う気持ちもあるけれど、彼らの描く絵は、このような環境から生まれているのかもしれません。
今度、日本から人を連れてくるからね、と言ったら大人も子どもたちも、村をあげて待ちわびています。村の世話係、アンワー・ホッサンは皆にビリヤニ、というピラフのようなご飯をふるまう、と言って張り切っていました。一応気を遣って、私がダッカから準備してくるから、と答えたら、「ダッカからでは悪くなる。自分たちが作るから、学校の教師、互助会の女性たちの費用は負担してくれ」と私を説得していました。ビリヤニにはシナモンがワイルドに入っています。いかにも木の皮を剥がして放り込んだぞ、といういでたちで、その素朴さもとても気に入っています。

ナラヤンプール村の人たち、・・・おしゃれなことは何も知らない人たちだけれど、よろしくお願いします。私たちが校庭に植えた果樹の木々が成長するように、日本の人たちがそこに行って憩うことができますように、願っています。


ご協力、ありがとうございます。

発行:Sakura Mohila
〒330-0071 さいたま市浦和区上木崎T−9−20
        友光ビル2F (京浜東北線与野駅西口徒歩1分)
          Tel 048−832-4625  Fax 048-830-1709
          E-Mail : sakura_mohila@yahoo.co.jp
          HP : http://www.sakuramohila.com/
 
ページTOPへ
Copyright Sakura Mohila All Rights Reserved.