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No 5. September 2 〜September 15, 2005

コミラという街で写真を撮れ、と集まる物売り
街角の早朝の風景。朝ごはんの屋台

建築現場。これは再利用のために手で砕いたレンガ。

何年間もくたびれている犬
 

2005年、9月2日、18時45分。夕暮れのダッカ、ジア国際空港に到着。いつのまにかこれが7回目のダッカ訪問となった。ジア国際空港はまた少し拡張し、規模が小さいながらもユニヴァーサルな近代空港に変身し、係りの人たちの顔が怖くなった。入国手続きを終えて出ると、3銀行の両替用の窓口が並び、しきりに呼び込みをしている。利率表示が高く、なるべく感じのよい人がいる窓口で少し両替をした。前回、柄にも無く両替した金額を数えたら、カウンターのガラス越しに風で舞い込んだかのようにお札が3枚加わったので、今回もおもしろ半分に数えてみたら、案の定お札がどこからともなくすーっと差し出されて、「実際の計算額よりもお得になりました」という説明までついてきた。
 空港では日本で働いていた人たちの何人かから必ず日本語で話しかけられる。「こんばんは」とか「遊びに来たんですか」という流暢な日本語の挨拶に、愛想よく答えていると尽きることなく話しかけてくる。日本から訪れた学生たちが新聞のニュースになっていた。バングラデシュで日本人であることは、ちょっと安心できる要素のようだ。街を巡回するバスでさえ、誰も読めないのにカタカナで名前が記してあるし、突然「中村焼き鳥店」という漢字に遭遇することもある。タクシーに乗ると途中でガソリンスタンドに立ち寄りガスの補給をするけれど、その間メーターは、ピッツ、ピッツと音を立てて上がっている。スクーターと呼ばれる緑色の3輪モーターバイクに乗ると、渋滞をチャンスとばかりに雨避けカーテンの隙間から、障害のある手を差し入れてくる男、女たちがいる。街の混沌を珍しげに見入っているその目前に雨で湿った垂れ幕を通して、肘から下がなくなった手がぬーっと入ってくる、そんな光景を想像してください。「キャーーーー!」同乗している我がテイラーのバッシャ君は追い払ってくれようとするけれど、相手もイノチガケでやっているのだから、そう簡単には手を引っ込めない。金網にしっかりしがみついて手を出し続けるのだ。夜更けの土砂降りの雨の中でさえ、渋滞現場は我が職場とばかりに、赤ん坊を抱いた女、子ども、杖に縋る老人連れの女、男、さまざまな弱者が必死でハタライテイル。
 いつもはハク家の自家用車を使わせていただいていたが、今回は事情があってテイラーのバッシャ君を保護者のようにしてタクシーやスクーターを利用した。道を知らない振りをして遠回りする、目的地が近いと乗車拒否をする、運良く乗せてもらっても、「ガソリンが少なくスタンドまでは遠いのでその分のガソリン代」を要求される、と交通渋滞が作り出す混沌以外にすべての事実が混沌の要素を含みっぱなしだ。近距離で動く私たちはたいてい乗車拒否をされるから、乗り物なら文句は言うまいと何にでも乗るけれど、滝のごとくに降る雨の夜を窓ガラスもワイパーも壊れたタクシーの座席に座っていると、自然と言葉がなくなった。運転手が渋滞の場所で窓から手を出しては雨をぬぐうのだ。「オー、マイ、ゴッド!」バッシャ君は終始、しっかりとした顔でルートのチェックを怠らない。冷房なしの車内は窓も壊れて開け閉め不自由だ。ドアを閉めても開けても取っ手はポップ・オフ。自分で元の場所にサシコメ、ということだ。渋滞の中に方向違いに迷い込んだリクシャがあった。渋滞の整理に当たっていた係りの男が銃を振り回して仁王のような顔で怒っている。リクシャ引きでもなんでもしようとイノチヲカケテ田舎から出稼ぎにきた男が気の毒に見えた。交通ルールも混沌の状況もわかっていないのだ。乗客を2人乗せて、自分も、そして大勢の都会の人をもさらなる混沌の中に招き入れて立ち往生していた。
 ふと、街の中から牛が姿を消したことに気が付いた。初めての年には街のあちこちで目撃できた、車の列と共存して歩く牛たちはいつしかいなくなった。見たのは、トラックの荷台に詰め込まれて肉食用になる牛たちだけだ。

 バッシャ君のお店の大家さん、シャーカー氏は、地元のブッシャンドハラの開発地区はよい所だから案内すると強引に誘ってくださった。強引の塊のような地元のビジネスマンだが良い人だ。ハク家の自家用車と運転手、バッシャ君、私と妹の小木節子が乗り込んでシャーカーさんに案内してもらった。雨季と乾季で広さが異なる砂漠のような川辺や、区画整理を終え植樹されて住宅建設を待つ開発地を車でまわった。アジアで最大のショッピングモール、病院、インターナショナルスクール、職業訓練学校、遊園地などが建築されている。シャーカーさんが得意げに言った。「この区画をオレは2区画買った。どうだ。ここはすばらしく近代的な未来都市だろう。日本にこんなところはあるか?」
シャーカーさんは絶対善良な人に違いない。いつも断り続けている食事のご招待、今度は絶対ご馳走になるからね。ところで、バッシャ君の家はきちんと整理整頓された家だが、トイレは菅が水漏れ、配水管も詰まっていて、水浸しだそうだ。建物全体が古くて手の入れようが無いというのが実情のようだ。バッシャ君の店のあるシャーカービルも小奇麗に見えるのはこの店内だけで、建物全体が崩れかかっているか、未完成のまま歴史を重ねたかのどちらかだ。シャーカーさんの家はその近所のビルだそうだ。

 そういえば、増築された国際空港のトイレは新しくするのを忘れたのではないのだろうか。

 今回、バッシャ君と行動をともにした時間の分だけ、彼の世界のバングラデシュを体験することができた。楽しく、腹立たしく、心温まる貧しい世界だった。彼のスタッフと働いた時間は、私も妹も充実した、豊かな時だった。なんとバナナもサリーも、そうとは知らずに地元の人よりカナリ高くふっかけられて、金持ちの気分を味わった貧しい日本人でもあった。

 

歌う子どもたち。ハーモニアムの伴奏で「We shall overcome…..」

 高速道路が開通し、でこぼこ道で車が転倒し犠牲者が出た道路が平らになり、嘘のように快適にナラヤンプールの学校に到着。マイクロバスの借り賃がドラマチックに高騰し、運転手はレースに出場している気分でぶっ飛ばし、そのせいかどうか、帰路に決まって立ち寄る途中の町、コミラでのお茶休憩も村の野菜マーケットも素通りした。「礼儀正しい運転手を手配するように」と3メートル先から声を響かせていたハク氏も、もうそのような頓着はしなくなった。便利さの他になにかが着実に変わっている。ともあれ、朝の6時にダッカを出発して10時半には目的地に到着。この時間の短縮は夢のようだ。運転手に挨拶したら、驚いて顔をあげ、それだけだった。問題らしい問題といえば、レンタルの料金が倍額以上になり、クーラーが故障していて、皆、脱水状態に近かったことぐらいである。

 誰かが見張っていたのだろうか。バスが学校に近づいた頃、先生と子どもたちが教室から走って出てきた。これがバングラデシュかと疑うほど、皆すばやく整然として校庭に列を作った。
「アッサム・オアライコム!!」と挨拶をするかしないかのうちに、歌が流れ始めた。「We
shall overcome, we shall overcome…♪、♪…」皆、精一杯に口と目を開けて英語で歌っている。力が伝わってくるような歌い方だ。お礼を言おうとするのに、声も胸も詰まってしまい、代わりに涙腺だけが詰まろうとはしなかった。5月に始まったばかりの週1回の音楽のクラス。3ヶ月で彼らは英語の歌詞を5番までと曲を覚えて、歌っている。外は日差しが強いからと皆で教室にすし詰めになったが、そこでも歌ってくれた。「We shall overcome…」なんの脈絡も無く、このような言葉が私の心に浮かんだ。「いまにみておれ、やったるで!」

 子どもたちの写真を見て、すでに気づかれた方もあるだろう。水色の服は制服のようなものである。ナラヤンプール小学校が私立から政府の経営する公立学校に昇格(?)した。金銭にゆとりのある家庭は数種類のデザインの中から自分の気に入った服を選んで買うのだそうだ。感無量。石版もやっと過去のものとなり、子どもたちはノートを使い始めた。

 前の晩、私の留守に村の教育担当、ホッサンさんからハク夫人に電話があった。「政府の教師の一人が私的に雇った数学と英語の先生は、公立学校となった今、存在が矛盾しているのではないか、と反対している」というのだ。ハク夫人が付け足して言うには、「ホッサンは日本から金を受け取っている、仲介のハク氏も日本の金を受け取っている、という噂があって、ホッサンさんは責任を取りたくないからやめにしたいと思っているし、私たちも誤解を受けるのは困る」と言うことだ。ハク氏は、「妬み、妬み」と笑って取り合わない。
「公立学校になって何が変わるか。英語と数学の教師がいなくなり、せっかく奨学生を出し続けるまでに育った教育レベルが元に戻るだけだ。」彼はその類のことはいやというほど経験してきている。その根拠は「私的に雇った教師の給料は政府の教師のそれよりも高い」ということだ。だが、彼は、公務員には昇給、年金などが保障されているが私的に雇った教師たちには保障が何もない上時が来たらそれで終わりになってしまう。さらに雇用も創出できている時になにをほざいているのか、と思っているのだ。さらに夫人に問い続けると、「メンテナンス用の寄付は歓迎。音楽の教師は問題ない」ということだ。そして反対しているのは、教師一人だけ。村人も子どもたちも英語や数学の授業の廃止は夢にも思っていないらしい。結局、その夜にまた村から電話があって、すべてが解決したと伝えられた。それでも夫人は気にかけて、政府の学校なのだから、邪魔にならないように学校に立ち寄らないほうがいい、とバスを降りるまでハク氏を説得していた。そして相変わらず彼の答えはこうだ。「行って直接話してみようではないか。」私はといえば、過去5年間、ハク氏に駆り立てられるようにして資金を工面したことに絡む諸々のことを思い出しては、うつうつとしていた。

 この一夜の時間は何だったのだろうか。教師たちも子どもたちもそんな話があったことさえ知らないようにいつものとおりだ。ホッサンさんにとりあえず、教師2人分の給料の受取にサインをしてもらった。すべて私が整えて、サインだけという用紙を作ったのだが、実はお金はハク夫人に預けてあって彼はその時には受け取っていないのだ。ま、生きた時間の長さの中ではこのようなこともあるかもしれない。それにこのペースで過去3年間、信頼関係でお金が渡されていたのだ。子どもたちの知らない所で推移した問題と解決の結果、英語と数学の授業は続けられることになりました。
 
 誰が見張っていたのか、帰りの道でもバスが学校にさしかかると、教師も子どもたちも走って出てきて、手を振ってくれた。ナントカバカの類で、「私の子どもたちは英語ができる、私の子どもたちは音楽もわかる、」と気が付けば孫のように自慢気に思っているが、現実にはもう少し気持ちの距離を置いたほうがよいのかもしれない。何年かが過ぎた時、「昔、突然日本人が村にやってきて…」と誰かが思い出すこともあるだろう。
 ダッカの家で、ハク氏が「あのようなことはダッカのどの学校でもできない」と、歌を歌ってくれた子どもたちの音楽教育の成果を評価するコメントをした。私が、「村のプロジェクト、基盤がきちんとできてよかったですね」と言ったら、あろうことか、彼は顔中に涙を流した。「あの村の人たちはチャンスを無駄にしなかった。ところが私の生まれ故郷の村はどうだ。同じようにチャンスを与えたのに、私たちは彼らの村に行くことさえも止めてしまった。」

 いつも冗談の陰に隠してはいても、彼なりにうつうつとした想いを自分の中に留めてくれていたのだろう。国のためにと、ひたすら突っ走ってきた人生。年を取って病気になってから、想像もしていなかった形で果実を見ることになり、どんなに嬉しかったことだろうか。
「We shall overcome… 今にみておれ、やったるで!」


背景の果樹は順調に育っています。

ハーモニアムを演奏する音楽教師
 

 村にスピーカーが鳴り響いた。「ショミティの女性たちはホッサン家前の空き家に集合するように!」と呼びかけているのだそうだ。そうか、こうして連絡が伝わっていたのか。そして20人近いメンバーが集合した。ショミティの運営は良好。牛を飼って食肉用に売る人、牝牛を飼ってミルクを売る人、山羊を飼う人は肉をピラフ用に売るのだろうか。山羊の乳も多くはないが食するそうだ。支度金を借りて、息子を就職させて借金を返している人も数人いた。サクラ・モヒラ・ショミティのメンバーになりたいという人たちがいるのだが、どうしましょう、という相談があった。ハク氏が断わるように言っていた。組織を大きくすると、手に負えなくなる、というのがその理由だ。それに彼女たちが積み立てた1年半の保証金と、実際にプログラムが稼動するまでのその期間を想うに、大きなジレンマがあったことは想像に難くない。その試練を通過して、今やっと順調に稼動しているのだから、先ずは軌道に乗せることだろう。途中、女性たちの間で喧嘩も頻繁にあったらしい。リーダーの女性が私たちの帰る前に個人的会いに来て、そんな内輪話を洩らしていた。彼女は一番若く、まとめる苦労もひとしおではなかったらしいが、ここにも目的のためにくすぶりを自分の中に留めていてくれる人がいたことを知り嬉しかった。交通時間が短縮されたおかげで、このような話もできるようになった。彼女はさらに、「村のトイレは覆いがないので、せめてドアのような物がほしい、結婚式にお金がかかるので女性たちのためにもう少し貸して欲しいと願いでたが、今はお断りすることにした。もうひとつ新しいプログラムが始まったからだ。たかがトイレのドアだが、決して二つのことを進めない、ということを原則にしようと思っている。いつも一つずつ、着実に…

 新しいプログラムを紹介させていただくことにしよう。なんと、「女性たちの独立を願って」私のお金を役立ててほしいという方が現れたのだ。和子さんとだけご紹介しておきましょう。このニュースを報せた時、ハク家の人たちも、ホッサンさんも大喜びでした。ハク夫人が即、「裁縫のプログラム」と答えてホッサンさんに費用を検討してもらったということだ。ミシン3台とミシンの先生の給料、仕事場の借り賃が賄えるという大まかなコスト計算だった。私たちが村を訪れる前の夜に電話があり、村の人たちが喜びで湧き立っている旨を報せてきた。そして、無料にすると不公平なので、わずかでも授業料を払う、という原則を自分たちで決めたということも一緒に伝えてきた。
 テイラーのバッシャ君に手伝ってもらい、ダッカのミシン屋でミシンを4台購入することができた。インドで作られる一流メーカーのミシンよりは、中国製のミシンは故障が少ない、という彼の薦めにしたがって、「Butterfly」と「Flying Man」という絶対希望がもてそうな名前のついた脚踏みミシンを先生の分も入れて2台ずつダッカの店で購入した。物差し、はさみ、糸、ボビン、ボビンケース、全部買って、店主に交渉したら、「10年間」の保障をつけてくれた。支払いをしながら、今後の10年間をちゃんと見守りたい気分になった。皆、高揚した気分で村の女性たちに引渡し、ダッカに帰ってきた翌日に村から電話があった。「裁断用のテーブルとミシンの椅子がない」これくらいなら村でもなんとか調達できそうだ。そして来月から具体的に始まるそうである。


会議の模様。教育担当ホッサンさん 
村長さんで、リーダーのご主人

 会議の終わりにあたり、私が皆を制して言った。これだけは言わなければならない、という強い義務感があった。「このお金は皆さんの独立を願った女性が、自分の給料を割いて、提供してくださったもので、ありあまるお金を簡単に出したのではありません。人間なら決して善意を無駄にしないでください。」ハク氏がベンガリ語に通訳したが、私の言葉の10倍くらい長い。よくよく言い含めてくれたのだろう。リーダーのご主人は自分の家をオフィスに提供するが電気代その他を含めて2ヶ月は無料で提供する、そしてそのお金があるのだからリーダーも無料でこの仕事に当たる、とコメントが返ってきた。女性たちもこれで仕事をしようと思っているようだ。まずは1年のプログラムがスタート。ハク氏の「だれが貧乏でいたいものか」という気持ちを信じて、見守ることにしよう。
 村の女性と、数学の教師が個人的にやってきた。すわ物乞い、と緊張したら挨拶に来たのだった。教師は仕事を続けさせてほしいと頼んで行った。

 


日本の仕事に張り切る職人と経営者バッシャ君

 バッシャ君が経営するFashion Galleryに新しいミシンが入った。中古ながら三菱の工業用ミシンと階上の仕事場に置かれたロックミシンである。服を作る小木節子が彼のミシンではロックが見せられないとデザインを限定したのを、彼は気にかけてロックミシンの購入を決めたのだろう。にもかかわらず、糸が悪くやはりロックは満足な結果ではないようだ。中央に写る2人は腕の良い職人で、日本担当は彼ら二人、そしてそのボタン付けは12歳の男の子が担当している。
4月からサイズの間違いが続き、ついに「もうオーダーは出せません。いつになったらこれぐらいの小さな問題をしなくなるのでしょうか」ときつい言葉を言ってしまった。バッシャ君はとりあえず、「間違いをしたくてしている人などいるでしょうか。それでもオーダーが来ないというならそれも神の思し召しでしょう」と文法と綴り字の間違いを交えながらメイルのメッセージを書いてきた。しばらくこちらからの沈黙が続くと、ハク氏の名前でバッシャ君のコンピューターからメッセージが届いた。文面は元大使、朗々と、いかに日本の仕事が刺激的で金銭面を超えてすばらしいものであるかを訴え、間違いは全部自分の費用でやり直すから仕事を送って欲しいと、バッシャ君に代わって訴えてあった。しかし、そのメッセージはタイプと綴り字の間違いが多く、ハク氏に頼んで万年筆で書いてもらったものを彼がコンピューターに一生懸命、間違って打ち込んだのは一目瞭然だ。こちらもサイズ7とか9の問題で神の天罰を受けるのも割に合わないので、頃合いを見計らってオーダーを送ることにした。それにつけても、服を作る小木節子と連絡係りの私とでは、このようなことをめぐって喧嘩になることがしばしばだ。彼女は職人が同じミスを繰り返すことは承知できない。一方、私は彼がほんとに分らないことが見て取れるので、そこまで厳しくなれない。お互いに夜中の電話を無言で切ったこともしばしばあった。そして彼にやり直しや、支払いをしないことを告げるはめになった時には、「これは金銭の問題ではなく、職人としてのプライドの問題だ」と自分ではできそうもない規準を彼に押し付けた。が、神の思し召しとはこのことか。彼は金銭を超えた感性を持ち合わせた青年だった。今回、小木節子が、「打てば響く」という感触を得て、私たちも、そしてきっと彼らも、充実した仕事の時間を共有できた。顔と顔を合わせての作業はほんとに効果的である。

 彼は12歳である。サクラ・モヒラのシャツのボタン付けや使い走りをしている。彼は弟2人とともにバッシャ君の家で食事をし、階上の仕事場で寝起きしている。両親が貧しくて子どもたちの面倒をみることができないということだ。私たちのおやつのアイスクリームや甘いお茶をポットで買ってきて茶碗についでくれたりするのも彼の仕事だ。バスに乗って、ボタンホール屋に行くのも彼だ。ところで、その彼が食べられないアイスクリームを私たちが食べるというのも、つらいものだ。バッシャ君に願い出ておやつはやめてもらった。階上にはもう一人、男の子が働いていた。おもしろいのは、物乞いの人にお金を渡すのも、今日はお金をあげないからあっちへ行け、というのもおおむね彼の仕事だ。ある日、バッシャ君が、「見てください。あの物乞いの老婆は120歳、娘も100歳くらいです」と言う。本人たちが言う実年齢の真偽はともかく、私も思わずコインを差し出したほどだ。週に1回くらいの割合で来るそうだ。バッシャ君が出て行って私のコインを平等になるように手渡していた。

なんだかんだと言いつつも、Fashion Galleryから生まれる洋服の出来栄えが向上しているのは確かだ。彼らは間違いがあったにしても、目の下に隈を作りながらでも、なんとか条件に見合うように努力してくれる。タクシーの中でバッシャ君は言った。「父は退職。弟は頼りにならない。妹たちも3人いる。私の生活が仕事、仕事は仕方がない。」上の妹さんが9月23日に結婚するそうだ。彼はハク夫妻にも招待状を届けた。
そしてここでも聞こえてくる。「今にみておれ、やったるで!」

 

時の経過は確実だ。毎日、同じことを繰り返しているように見える生活の中で、サクラ・モヒラにかかわる人たちも5年の年を取り、さまざまな変化に対応せざるを得なくなった。それとともに、進展もまた確かな事実である。物を売ったこともないこの私がよくぞ、2年半も営業のまねごとをしてきたものだ。Fashion Galleryに関る人を考えるにつけ、このプログラムをさらに充実させることは意義があると感じている。

 ナラヤンプール小学校の英語、数学の教師2人分の給与はSRID婦人会が3年間、そして音楽のクラスの費用は与野駅前のCafe Gallery SHINEで開催されるマンスリーライブを通してオフィス沙羅がそこでの寄付金をくださることになった。

 その他に、いつも販売会に足を運んでくださる皆様、オーダーをしてくださる皆様に感謝申し上げます。

 小物が新しく登場します。これは残り布を使いながら、女性や裏方の未熟な職人を稼動させる予定です。また、バングラデシュ産のリネンも手に入るようになりましたので、季節に合わせながら、木綿、リネンもシルクに加える予定です。

ホームページもできました。気安いシャツスタイルの服を各種取り揃えましたので、どうぞサクラ・モヒラの物語とともにお楽しみください。

 
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