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No 15. December 2 〜 December 15, 2010
校庭に育った果樹:11年                母と娘:運転手、ファルックの家族
糸を紡ぐ職人さん。カディは彼から購入       仏教の歴史を示すレンガとそこに暮す植物
 

 メディアでバングラデシュの名前を聞くことが多くなった。一昔前までは、洪水や飢餓の話題にしか登場しなかったこの国がサイクロン・シドルの頃からメディアの注目を集め、瞬く間にアパレル関係の人たちを主とした生産の場所として注目を集めている。現地でもスチームをもくもくと出して前進している力強さが充満している。空港に降り立っただけでも、ブーンと前進の音が聞こえてくる。車や、人々の交わす声や動き、なんだかわからないエネルギーが耳や頭や目に入ってきて、神経が深く疲れてしまいそうだ。ローンで買いやすくなったトヨタの中古車が中産階級の人々の夢と希望を象徴的に現して、商業地域の昔ながらの道路を埋め尽くしている。携帯電話が国の発展・進行を両肩に担って、首都の沈黙を奪ってしまった。今や空港周辺の生活風景は、メディアの報道内容に呼応するかのように、劇的に変ってしまっているのだ。初めてこの空港に降り立った12年前の1月、時を遡りして歴史の中に降りてしまったような異質の空間に立ち、周りに存在する大勢の人間の沈黙と視線、始めて嗅ぐ臭いを五感に感じ、間違った場所に着いたのではないかと、出迎えの顔を見るまではほんとに心細かったことを思い出す。折りしもデング熱が流行した年で、薄寒い冬の空気の中に蚊がへろへろと飛んでいた。サファリスーツの税関はいかにも途上国という事務机から近寄ってきて、強面の顔にへらへらと笑いを浮かべ、「あんた、日本で何してんの」とため口英語で、話しかけてきたものだ。日本人は数人、皆、大きな荷物を両手に持って、背中に担いで、運び係りの連れあいを連れて、たくさんの古着をお土産にしているボランティアの婦人たちばかりであった。
今は、特に9.11以降は、税関は強面をさらに強面にして、急速に普及し始めたコンピューターとにらめっこして、機械的にチュックし、有能そうになった。肩には「POLICE」という立派な札さえ貼ってあり、警戒態勢にあることを無言で語っている。日本人もその他の外国から入る人も、国外に旅行や出稼ぎに出て行く人も増えて税関には数種のパスポートの色が、長い列を作っている。古着の山を背負った婦人たちに代わり、自国におみやげや文化製品を山のように持ち帰るバングラデシュ人が、得意と幸福を顔からはみ出させて、日本人と見るや、すかさず日本語で話しかけてくる。「こんにちは。焼き鳥やで働いていました。日本は大好きです」というのが、定番の挨拶だ。空港の銀行では円もドルも交換できるようになった。ある時、空港内の銀行で渡された手書きのステイトメントを見ながら、交換してもらった現地のお札の束(!現地のお金の価値と円の強さにより発生した束です)を、何を思ったのか柄にもなく一枚ずつめくりながら数えていたら、終わり近くの枚数の頃に、窓口から痩せた手が伸びてきて、スーッと数枚のお札が追加されたのも懐かしい思い出になった。車を持つ人が増え、空港には人と大きな荷物を満載にした車が次から次へと、出せる限りの音を出して、通り過ぎて行く。空港から街に出る道路も気がつけば、いつの間にか整備され、世界展開のホテルも建てられて、ダッカも世界都市に仲間入りしたことを報せている。いったいどのような方たちが宿泊なさるのだろうか。日本人のパック旅行の人たちがいるかもしれない。空港から宿泊先の家に向かう途中で、少し車を止めて、ほこりだらけの道路沿いの裸電球のお店で、果物やヨーグルトを買ってもらったことも、もう過去のページに記されてしまった。バングラデシュはまさに開発が進行中である。

 
日本から5人の訪問者がありました            新しい校舎:3教室と職員室
 

 なんとナラヤンプール村小学校は、あの田園地帯ではダントツの名門校だ。その事実が広く知られていないのではないかと恐れて、ここに特筆大書しなければならない。村人も、地域の人たちも、政府の人たちも喜んでいる。ここでは、日本人が教師を雇い、英語、音楽、アートのクラスがある。訪問するたびに、ビスケットが配られる。制服も支給される。毎年のマークシート方式の実力試験で優秀な成績を取り、無料の進学権利を獲得できる子が大抵4人もでる。ちなみに周辺の村の学校では0人である。なるほど親たちはこの学校に子供を通わせたがるわけだ。村の世話係り、アンワー・ホッサンや私たちのスタッフのだれかの写真が政府のオフィスに飾ってある。しかし、報告されたそのような内容は、すっかり忘れていた。名誉というよりはむしろ、賄賂を要求されないように気をつけよう、と用心したのだ。だから、遺跡を発掘した突然のニュースのように、ナラヤンプール村の小学校の栄光(!)が浮上して、政府が新しい校舎を建てる決定をした時、正直驚いた。だが流れを掴んでいた、アンワー・ホッサンは、鼻を高くしたことだろう。彼はかろうじて50代に留まる年齢ながら、今や長老の1人であり、村の出身の大学生が、「アンワーは年を取った」と労わりの言葉を発するほど、老けてしまった。「人のために役に立つことが私の生きがいであり、誇りである」と地元のウェルビーイングに勤めてきたアンワーにとって、生きて実現したこの栄光はほんとに嬉しいに違いない。アンワーには、10年以上にわたって、失礼な言葉を山のように投げつけた。だが、彼を立腹せしめたことがない。彼は村人のために、ああしてほしい、こうしてほしい、と訴えはしたけれど、私的な懐を肥やす言葉は言ったことがない。一方、少しばかりのお金をだして、ああしてほしい、こうしてほしい、とたくさんの注文を出し続けた自分がひどく幼く見えてくる。だが、幼いなりに村の向上を願ってのことと分って、アンワーはそれを実行してくれた。かように手足になって労を尽くしてくれた彼に、お金を払おうと思ったことさえもない。彼が準備してくれるお昼のご馳走をただ食べていた無邪気さが、今頃になって、ちくちくと心を刺してくる。彼はもてなしの食べ物を準備して待っていてくれたのだ。日本から客人を連れて行くときも、そうでない時も。「お疲れ様でした」と労ったことさえもないなあ。でも、アンワーだって私に労いの言葉を与えてないから、お互い様だよね!アンワーは村の福祉を背負い、私は支援という旗を掲げているから、時々、一方的に私が怒りまくるけれど、けんか別れをしないのは、互いに相手の状況を察しているからだ。それはさておき、「よかったね、アンワー」。今後のために、彼の鼻の高さを記録しておくべきかもしれない。 
 学校にはつけたい注文が波のごとくに押し寄せる。村の生活に想いを寄せてくださる日本の方々の恩情に応える結果を出してもらいたい、とつい考えるのだ。だが、それを言葉にしたら、スターターのハクからチェックが入った。彼の言い方は皮肉そのものだ。「オーケイ。君はドナーだ。思いのままにできる」。あとは新聞に没頭している振りをされてしまった。アートの教師の教育内容が低いのではないか、スカラーシップの生徒は礼状くらい書くべきではないか、という程度の意見で、この反発だ。だが、次の訪問の時、アンワーが「アートの教師は嘘と欠勤が多いので、様子を見て首にする」と言ったので、意見を表現したのは結果として前進であった。このあたりから、こちらに直接の村の言葉が来るようになり、微妙に主導権が移り始めたのではないだろうか。

 8時にダッカを出発すると大抵昼頃には村に到着するはずなのに、なぜか、今回は2時すぎの到着になった。アンワーがやきもきしてツアーガイドに電話を入れ、せっついている。子どもたちが2日間の試験の日にあたり、午前は学校に立ち入り禁止なのだ。というわけで、午後に到着したのは、ちょうどよいタイミングであった。実際には、子どもたちが退屈を押さえて、待っていたに違いない。いつもの、音楽の歓迎会がないのかなあ、と半ばあきらめつつ、悲観的な気持ちでいたら、いざ校庭に車がさしかかるや、いつものように子どもたちが校庭に走り出て、歓迎会をしてくれた。有能な女性教師に仕込まれて、彼女の号令で、軍隊体操のような動きまでしてくれた。彼女は給料の値上げがほしくて、はりきっている。しかも今回は日本から5人の客人があり、日本語ぺらぺらのガイドまで同行しているではないか。このチャンスを逃してなるものか、というモードがありありだ。子どもたちが調教されたように村の子としては異例に整然と動いている。かわいそうに。塩辛いドロップが落ちそうになったけれど、これは、調教された子どもたちが哀れなのではなく、何もわからないまま、とにかく客人を喜ばせようと、ひたすら号令に従っている子どもたちに心が動いたのだ。この女性教師は校長先生やベテランの教師を差し置いて、歓迎会を仕切っている。彼女の家のある地域ではインターネットが使えるようになった。それで、日本にメイルを送りたいと、給料値上げの要求のあとに付け加えた。了解。村のことを知らせてほしい。村の人たちが何を考えているか知らせてほしい。概して村の大人も子供も、階級と懐のふくらみ具合が低くなるにつれ、意見を、特に異見は表明しない。お金や教育がないというのはこういうことかもしれない。表情のないまま、力のある人に従うだけだ。彼女はダッカ大学卒業生で、校長先生たちよりも「エリート」だ。力を発揮するのはいいけれど、出すぎはやめてね。あなたのお給料は、コントロール力ではなく、子どもたちにどれだけ奉仕しているかによって決まるからね。だが、強力な指導は途上にあっては、重要な段階かもしれない。意見や異見は心にロックして、スマイルするだけだ。
 学校には古本がそろい始めた。奨学生で大学生のモニールとアムジャドに頼んで、ダッカ大学の古本マーケットから買ってもらい、村に帰省するおりに運んでもらっている。新品の本を買うと、頑丈な鍵のかかった本箱にしまいこまれ、だれも読むことができないので、古本を皆が気軽に読めるよう、二人に直に校長先生に頼んでもらった。本の選択は、彼ら2人の大学生に頼み、教育的、教訓的な本ばかりが幅を利かせることをさけたつもりである。しかも校長先生に「なくなってもよいから、貸し出してもらうように」と伝言をつけた。今回もお金を預けてきたから、蔵書が増えることだろう。地域の人も読めるようなライブラリーができないものだろうか。だが、校長先生の口から出る言葉は、本ではなく、「制服がほしい」である。これが現実なのだろう。
 モニールとアムジャドが自分たちの家に日本からの客人を招きたくて、前日から帰省して待機していた。不幸にも、到着が遅かったがために、誰の家にも立ち寄ることができなかった。次はガイドにその辺の事情を斟酌するよう、念を押すことにしよう。モニールは来年の9月で卒業を迎える。アムジャドはその半年後の卒業である。もう少し先のことだけれど、なにか肩が軽くなるように感じている。

 
村の縫製チームの工房とリーダーさん             ショミティの女性      
 

 上の写真で見る限り、多くの女性たちがひしめいているけれど、この中に縫製チームに属する女性たちは何人いるのだろう。カメラを構えると、どこかから湧き出した人たちがどさくさに紛れて入り込むから、何度村に足を運んでも、正しいメンバーが把握できない。明確なのは、リーダーさん、元インストラクター、裁縫の得意な女性の3人か4人である。だから、説明はリーダーさんにしてあとは彼女が責任を持ってくれさえすれば、効率よく進むのに、効率の悪さとサンプルを見て自分流儀のサンプル風を造る、という能力はバングラデシュ人の秀でた能力であるように思われる。それでも、一応の製品はできてくるし、サリーのバッグはサクラモヒラの定番になっているから、ひとまずはこれを是としよう。
 今回は新しい試みを持参した。ある方から、会津木綿の小袋の注文を頂戴したのだ。時とともに下火になる会津木綿の炎を燃え上がらせること、村の女性たちに仕事を出すことを旨とした提案である。村の女性たちに注文する小袋のために、サクラモヒラが準備を要したのは3日である。すべてのプロセスをデータ化し、そのプロセス全ての段階にサンプルをつけて、超人間でなければ間違えることができないように工夫したのだが、果たして彼女たちは超人間でないことを証明してくれるだろうか。

 国際ソロプチミスト「やよい」の会が二十周年の記念として来年秋から村の女性たちの自立支援をしてくださることになった。これまでのところ、サクラモヒラのデザイナーがダッカの工房で技術指導する間、村の女性たち2人にダッカに出向いてもらい、10日間くらいをトレイニングにあてるという計画である。彼女たちが村に帰ってリーダーとなり、仕事を教えて、注文の製品を納品する。彼女たちには指導者としての給料を払うが、その中から少しずつでも、トレイニングにかかった費用を返済する。また製品の売り上げの一部を積み立て、ミシンの購入や修理費、その他の費用を賄えるようにするのが目的である。
 今回、到着が遅れたために充分な議論の時間はとれなかったが、問題になるとしたら、費用を返済すること、売り上げの一部から費用をストックすることである。なにしろ、もらうことには諸手をあげて賛成でも、その責任はだれも担いたくない。「費用を返済する」という条件を口に出す時には、充分な準備と時間が必要だ。
 彼女たちは教育が低く、生活の条件が悪いけれど、劣っているわけではない。時間はかかってもいつか小学校が示したように、誇れる場所として育ち、女性たちが自立できる日もくるはずだ、と思いたい。説明しながら、私がのどを詰まらせたら、リーダーさんと目が合って、二人でひしと抱き合ってしまった。リーダーさんは知的で、リーダーシップを持った女性だから、私の心の言葉を聞き取り、村の女性たちを自分が導かなければならない、とわかっている。彼女を信頼することにしよう。

 マイクロクレジットのシステムを使って組織していた「土地、家、夫」のない女性たちの会は解散することに決定した。3%の利息で動かしていたが、この利息が長年の間に約16万円に達した。私はこのお金をリーダーさんの給料に当てるように、と指示をだした。女性たちは、それは自分たちのお金だから、給料はオマエが出せ、という。けんかが1年半続いたが、話合いにならず、まくし立てられるばかりで、結論はでそうにない。彼女たちにこのお金を提供し、独立してもらうことにした。彼女たちは50歳代に達し、バングラデシュの村人としては、働ける段階を過ぎ人生を御終いにする時だ。無念だが、増えたお金を提供してこのプログラムに終止符を打ったのは正解であるようにも思われる。彼女たちはにこやかに笑って集まってくれたけれど、私はアンワーにまたもやきびしい言葉を突きつけたのだ。「人間として恥ずかしくないのですか?」アンワーは静かに応えた。「彼女たちは教育がない」このお金を作るために、私がどれだけ働いたのだろうか。あの人たちの顔など見たくもない、と思っていたのに、アンワーにビスケットを頼む時、彼女たちの人数も習性のようにカウントしていた。しまった!あげるべきじゃなかった、と自分のへまを悔やんだけれど、アンワーはほっとしたに違いない。理屈では私の方が正しいかもしれないけれど、彼女たちの現実の生活を見ると、これでよかったのだ、という理屈以外の理屈が顔をだす。今や、あげてはいけない、という理論が世の正論になっているけれど、それが全く正しいわけでもない、と現場にいると思ってしまうのだ。教育がない、という事実は、想像を超えた難しさを突きつける。それにつけても、へまとどじを繰り返す自分が情けない。いっそ、ヘマノ・ドジ子とでも改名したら、へまが恐れをなして、有能になれるような気がするのだが…

 
ナルギスとヌルジャハン:ランプラ、ダッカの工房にて       
 

 ダッカの縫製工房は、ひとりが12月に出産し休業中、2人が中心になって働いている。残りの2人はあまりの基礎力のなさに、少し休業してもらった。この2人に技術を集中的に教え、国の女性たちに普及するという役割を担ってもらいたい。トレイニング1年を過ぎた現在、未熟さを残しながらも、洋服が立体であることを意識していないバングラデシュの縫製技術の実情では、他のどこよりもきちんとした製品を作れると自負できる。自国のマーケットに対しても製品を送り出してほしい。ダッカでは日本では想像もできないくらいに、お金が動いている。デザインはこちらで提供しよう。やる気満々の二人だが、ひたすら数をこなさなければならない現地企業に比して、丁寧な仕事ができるこの小さな現場が気に入っていて、多少大変でも続けて働きたい、と考えている。給料は平均よりも優遇して、技術が逃げてしまうことを防いでいるけれど、こちらにしても、今年くらいが正念場にちがいない。今年の課題は、彼女たちの製品のために、マーケットを開拓して継続的な仕事を作っていかざるをえない。

 イスラムさんの革工場はその点で一番気が楽だ。彼は技術があるし、誠実だ。それゆえに、国内でも確実な販売をこなしているのだと思うけれど、サクラモヒラの少ない注文数にもいやな顔をしないのは、デザインが手に入るというメリットがある。だがイスラムさんとは、なによりも信頼関係が大きな土台を作っている。

 

 今回、5人の方たちが、サクラモヒラのスタディツアーに参加してくださった。というより、彼女たちの方から、「行きたい」という要望がでて、それに合わせて計画を立てたのだ。彼女たちの目的はバングラデシュの布と手仕事。その目的に添うように旅行会社に依頼し、絹の場所、手織り綿の場所、手仕事の場所と、ダッカ大学、サクラモヒラの村が行程であった。こちらが同行できたのは、サクラモヒラの村とコミラという中継の地の手織り綿、モイナマティという仏教遺跡の場所、サクラモヒラが生産を依頼する古い会社である。どの場所も、個人旅行の興味を満足させ、皆、再度の訪問を希望していらっしゃるというのは、とても大きな喜びだ。今回は特に2度目の方たちもいらして、村の子どもたち、大人たちはさぞ嬉しかったことであろう。感情は簡単に見せないショミティのリーダーさんの顔が緩みっぱなしであった。
 行き先々のサクラモヒラに関わる場所で、旅行会社も含めた場所は、人間の関係が構築されていて、相手方との人間の交流を基にツアーが遂行された。そのことにふと気がついて、感慨を深くした。悪いことも良いこともいろいろあって、私はいつもヒステリーのシンボルのようだし、眉間に縦のしわをよせたりしているけれど、サクラモヒラを友人としてそのお客様を迎えてくれたバングラデシュの人たちの態度は嬉しい以上に嬉しいものだ。こんなふうに物では計れない何かが育って、やがて知らず知らずのうちに、何かが受け継がれて残って行くにちがいない。貧乏も金持ちも関係ない、人間の関係ができているという手ごたえを実感するのだ。

 帰国した夜、ある方から偶然に電話を頂戴した。10年前、彼女はご自分の子どもさん二人と、地域の男の子をつれて、ナラヤンプール村の学校まで旅をした。心配だったが、お正月休みの旅で、私はご一緒できず、すべての世話をハクに託したのだった。男の子たちがもう一度あのバングラデシュの村に行きたい、と言っているという電話の内容であった。さらに、地域の男の子の弟が「僕も連れて行って」と言っている、という。「是非どうぞ」というのが私の答えだ。私が同行しなくても、今なら大丈夫。今や加齢で村には行けなくなったハクの代わりに、旅行会社もその他の人も、村の人も、連絡さえしておけば、充分に動いてくれることだろう。彼らは新たな思い出を育んで、ナラヤンプール村を故里のごとくに想ってくれるにちがいない。

 人に迷惑をかけてはいけないと、かみしもを着ていたけれど、まわりの人たちの温情のなかで、もう皆のプロジェクトにしてもいいのではないか、と思うようになった。基本的には、ナラヤンプール村の人たちは礼節をわきまえた人たちだ。訪問者が人間のルールをわきまえてさえいれば、彼らはお金では図れないギフトをくれることだろう。


ご協力、ありがとうございます。課題や問題はあるけれど、このような報告ができることに胸をなでおろし、顔を大きくほころばせています。

 
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